・・・ 私はむかむかッとして来た、筆蹟くらいで、人間の値打ちがわかってたまるものか、近頃の女はなぜこんな風に、なにかと言えば教養だとか、筆蹟だとか、知性だとか、月並みな符号を使って人を批評したがるのかと、うんざりした。「奥さんは字がお上手・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・その都度せかせかとこの橋を渡らねばならなかった。近頃は、弓形になった橋の傾斜が苦痛でならない。疲れているのだ。一つ会社に十何年間かこつこつと勤め、しかも地位があがらず、依然として平社員のままでいる人にあり勝ちな疲労がしばしばだった。橋の上を・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・「いや私も近頃は少し脳の加減を悪るくして居りましてな」とか、「えゝその、居は心を移すとか云いますがな、それは本当のことですな。何でも斯ういう際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了うんですな。第一処が変れば周囲の空気からして変るというもんで・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・未来に今朝のような明るさを覚えたことが近頃の自分にあるだろうか。そして今朝の思いつきもなんのことはない、ロシアの貴族のように(午後二時頃の朝餐が生活の習慣になっていたということのいい証拠ではないか。―― 彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・そら近頃出来たパン屋の隣に河井様て軍人さんがあるだろう。彼家じゃア二三日前に買立の銅の大きな金盥をちょろりと盗られたそうだからねえ」「まアどうして」とお源は水を汲む手を一寸と休めて振り向いた。「井戸辺に出ていたのを、女中が屋後に干物・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・併し、近頃になるに従って、百姓の社会的地位、経済的地位が不利になって生活が行きつまって苦るしくなって来ている。それを親爺は理論的に説明することはよくしないが、具体的な実例によって、知っている僕は、たびたび親爺の話をきいたものだ。親爺も、僕達・・・ 黒島伝治 「小豆島」
・・・発掘さるるを厭って曹操は多くの偽塚を造って置いたなどということは、近頃の考証でそうではないと分明したが、王安石などさえ偽塚の伝説を信じて詩を作ったりしていたところを見ると、伐墓の事は随分めずらしいことでなかったことが思われる。支那の古俗では・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ゆうべは俺もよく寝られたし、御霊さまは皆を守っていて下さるし、今朝は近頃にない気分が清々とした」 おげんは自分を笑うようにして、両手を膝の上に置きながらホッと一つ息を吐いた。おげんの話にはよく「御霊さま」が出た。これはおげんがまだ若い娘・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・スバーの心は、まるで靄に包まれた明方のように涙でしめりました。近頃、次第に募って来た、ぼんやりとした恐しさで、彼女は物の云えない獣のように、父や母につきまといました。大きな眼を見開いて、いかにも何か知りたそうに、親達の顔を眺めます。けれども・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・きょうは朝から近頃に無く気持がせいせいしていて慾も得も無く、誰をも怨まず、誰をも愛さず、それこそ心頭滅却に似た恬淡の心境だったのですが、あなたに話かけているうちに、また心の端が麻のように乱れはじめて、あなたの澄んだ眼と、強い音声が、ともする・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫