・・・家の修覆さえ全ければ、主人の病もまた退き易い。現にカテキスタのフヮビアンなどはそのために十字架を拝するようになった。この女をここへ遣わされたのもあるいはそう云う神意かも知れない。「お子さんはここへ来られますか。」「それはちと無理かと・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・』そこで私は徐に赤いモロッコ皮の椅子を離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮の書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子でも偸み聴いてい・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 正純はまた次ぎの間へ退き、母布をかけた首桶を前にいつまでもじっと坐っていた。「早うせぬか。」 家康は次ぎの間へ声をかけた。遠州横須賀の徒士のものだった塙団右衛門直之はいつか天下に名を知られた物師の一人に数えられていた。のみなら・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・「業畜、急々に退き居ろう。」 すると、翁は、黄いろい紙の扇を開いて、顔をさしかくすように思われたが、見る見る、影が薄くなって、蛍ほどになった切り燈台の火と共に、消えるともなく、ふっと消える――と、遠くでかすかながら、勇ましい一番鶏の・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・「えい、退きねえ」 といって、内職に配達をやっている書生とも思わしくない、純粋の労働者肌の男が……配達夫が、二、三人の子供を突き転ばすようにして人ごみの中に割りこんで来た。 彼はこれから気のつまるようないまいましい騒ぎがもちあが・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ 一足退きつつ、「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」 と屹といったが、腹立つ下に心弱く、「御坊さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。 それで・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・式は別に謂わざるべし、媒妁の妻退き、介添の婦人皆罷出つ。 ただ二人、閨の上に相対し、新婦は屹と身体を固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人の面を瞻りて、打解けたる状毫もなく、はた恥らえる風情も無かりき。 尉官は腕を拱きて、こ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・に触れたので、昼間は鉄の鍋で煮上げたような砂が、皆ずぶずぶに濡れて、冷こく、宛然網の下を、水が潜って寄せ来るよう、砂地に立ってても身体が揺ぎそうに思われて、不安心でならぬから、浪が襲うとすたすたと後へ退き、浪が返るとすたすたと前へ進んで、砂・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・両手を静かにふり払いて、「お退き」「え、どうするの」 とお香は下より巡査の顔を見上げたり。「助けてやる」「伯父さんを?」「伯父でなくってだれが落ちた」「でも、あなた」 巡査は儼然として、「職務だ」「だ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 珍客に驚きて、お通はあれと身を退きしが、事の余りに滑稽なるにぞ、老婆も叱言いう遑なく、同時に吻々と吹き出しける。 蝦蟇法師はあやまりて、歓心を購えりとや思いけむ、悦気満面に満ち溢れて、うな、うな、と笑いつつ、頻りにものを言い懸けた・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
出典:青空文庫