・・・しかし朝の五時ごろにいつでも遠い廊下のかなたで聞こえる不思議な音ははたして人の足音や扉の音であるか、それとも蒸気が遠いボイラーからだんだんに寄せて来る時の雑音であるか、とうとう確かめる事ができないで退院してしまった。今でもあの音を思い出すと・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・ 退院するころには蘭の花もすっかり枯れて葉ばかりになった。ポインセチアも頂上の赤い葉だけが鳥毛のようになって残っていた。サイクラメンもおおかたしなびてしまった。しかしベコニアだけは三つとも色はあせながらもまだ咲き残っていた。それでともか・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・この手紙の内容は御退院を祝すというだけなんだから一行で用が足りている。従って夏目文学博士殿と宛名を書く方が本文よりも少し手数が掛った訳である。 しかし凡てこれらの手紙は受取る前から予期していなかったと同時に、受取ってもそれほど意外とも感・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・例のごしごし云う妙な音はとうとう見極わめる事ができないうちに病人は退院してしまったのである。そのうち自分も退院した。そうして、かの音に対する好奇の念はそれぎり消えてしまった。下 三カ月ばかりして自分はまた同じ病院に入った。室・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・一月 八日 セントルーク退院。 九日 の朝本田来る、みじめな様子。 の夜、よそに招かれた父を待って、マルセーユーのホールで話す。グランパが桜の花を書き、エニシアルを研究し、十二時過に、グリルでランチをとる・・・ 宮本百合子 「「黄銅時代」創作メモ」
・・・手術後、ガーゼのつめかえの方法をいい加減にしたので、膿汁が切開したところから出きらず、内部へ内部へと病毒が侵入して、病勢は退院後悪化した。同志今野が、どうも頭は痛くなって来たし変だと思い、苦痛を訴えたら、済生会の軍医は、却ってこれまで一日お・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・この二十五日に退院して林町に住みます。 ――何から書こうかしら。二月二日、五日間帰宅を許されて帰っていた私が、黒い紋付を着て坐っている食堂の例のテーブルの傍で、咲枝が書いたハガキにより、貴方が私の健康につき最悪の場合さえ起り兼ねまじく御・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ どの産院でも、出産後一週間で退院するのが原則になっている。ここではこんなにいい条件で扱われた赤坊が、では退院したらどうなるだろう? その心配は、またちゃんと別な方法で充される。事務室の一部に、カード室がある。ゾックリ帖簿が整理され・・・ 宮本百合子 「モスクワ日記から」
・・・お父様御自分だって却ってよかったって云っていらっしゃる位なの。退院したら浜名湖へ行くんだって楽しみにしていらっしゃるわ」とつけ加えた。三尺ほどの距りをおいて此方側に立ってその話をきいた私は、「それがいい、それがいい」と、いつもい・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・ 退院者の後を追って、彼女たちは陽に輝いた坂道を白いマントのように馳けて来た。彼女たちは薔薇の花壇の中を旋回すると、門の広場で一輪の花のような輪を造った。「さようなら。」「さようなら。」「さようなら。」 芝生の上では、日・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫