・・・ ――ここに足あとがあるぞ。 ――ここにもある。 ――そら、そこへ逃げた。 ――逃がすな。逃がすな。騒擾。女はみな悲鳴をあげてにげる。兵卒は足跡をたずねて、そこここを追いまわる。灯が消えて舞台が暗くなる。・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金のからんだ訴訟沙汰になるのは、われわれ東洋人にはどうも醜い気がする。何故ならそれだと夫婦生活の黄金時代にあったときにも、その誓・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・一箇条つかんでノオトしている間に三十倍四十倍、百千ほども言葉を逃がす。S。」 月日。「前略。その後いよいよ御静養のことと思い安心しておりましたところ、風のたよりにきけば貴兄このごろ薬品注射によって束の間の安穏を願っていらるる由。・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私はN君を逃がすまいと思った。台所に、まだ酒が残って在る筈だ。それに、ゆうべW君が、わざわざ持って来てくれた酒が、一升在る。整理してしまおうと思った。きょう、台所の不浄のものを、きれいに掃除して、そうしてあすから、潔白の精進をはじめようと、・・・ 太宰治 「酒ぎらい」
・・・一語はっするということは、すなわち、二、三千の言葉を逃がす冷酷むざんの損失を意味して居ります。そうして、以上の、われにも似合わぬ、幼き強がりの言葉の数々、すべてこれ、わが肉体滅亡の予告であること信じてよろしい。二度とふたたびお逢いできぬだろ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・長い細い触角でもって虚空を手さぐり、ほのかに、煙くらいの眠りでも捜し当てたからには、逃がすものか、ぎゅっとひっ捕えて、あわてて自分のふところを裁ち割り、無理矢理そのふところの傷口深く、睡眠の煙を詰め込んで、またも、ゆらゆら触角をうごかす。眠・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・この機を逃がすならば少しの損をするゆえ早速に申し込もうと思う。大急ぎで十五円八十銭を送っていただきたいというような案配であった。そのつぎにおのれの近況のそれも些々たる茶飯事を告げる。昨日わが窓より外を眺めていたら、たくさんの烏が一羽の鳶とた・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・見逃がす事ではない、余はそれを食い始めた。桑の実の味はあまり世人に賞翫されぬのであるが、その旨さ加減は他に較べる者もないほどよい味である。余はそれを食い出してから一瞬時も手を措かぬので、桑の老木が見える処へは横路でも何でもかまわず這入って行・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・一番おしまいのやつを逃がすなよ。さあ行け。」 十人ばかりの検事と十人ばかりの巡査がふうとけむりのように向うへ走って行きました。見る見る監督どもが、みんなペタペタしばられて十五分もたたないうちに三十人というばけものが一列にずうっとつづいて・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・さまざまに向きをかえ周囲を描いていじって来た江波から、作者はついに常識人である間崎とともに橋本先生につかまって逃げ去っているのであるが、ともかくあれだけの小説のボリュームを、作者が、主人公を東京へ逃がすことでしめくくっているのを、非常に面白・・・ 宮本百合子 「文学と地方性」
出典:青空文庫