・・・ 狼は、どうしたらいいか困ったというようにしばらくきょろきょろしていましたが、とうとうみんないちどに森のもっと奥の方へ逃げて行きました。 そこでみんなは、子供らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、「悪・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・彼女の母は、十年前妹をつれて逃げ、今名古屋にいる。その人形は、数年前、母に会いたさに父に無断で名古屋に行った時、母に買って貰ったと云うものであった。今度、到底いたたまれないで逃げて来るにもその人形だけは手離せず包に入れて持って来たのだそうだ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・あるいはまた急に踏まれた安価にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、『よろしい、お持ちなされ!』 かれこれするうちに辻は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿に入ってしまった。 シュー・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・「いや逃げはせぬ。腹を切るのじゃ」言いすてて座敷にはいった。 その刹那に「おじ様、お相手」と叫んで、前髪の七之丞が電光のごとくに飛んで出て、又七郎の太股をついた。入懇の弥五兵衛に深手を負わせて、覚えず気が弛んでいたので、手錬の又七郎・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・――逃げよ。余はコルシカの平民の息子である。余はフランスの貴族を滅ぼした。余は全世界の貴族を滅ぼすであろう。逃げよ。ハプスブルグの女。余は高貴と若さを誇る汝の肉体に、平民の病いを植えつけてやるであろう。 ルイザはナポレオンに引き摺られて・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ ある者は恐怖のために逃げ去ろうとする衝動を感じた。しかし奇妙な歓びが彼の全身を捕えて動かさせなかった。それが地獄の劫火に焚かるべき罪であろうとも、彼はその艶美な肌の魅力を斥けることができない。そこに新しい深い世界が展開せられている。魂・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫