・・・ ひどく厭な気がしていた彼は金口を灰に突き刺すが早いか、叔母や姉の視線を逃れるように、早速長火鉢の前から立ち上った。そうして襖一つ向うの座敷へ、わざと気軽そうにはいって行った。 そこは突き当りの硝子障子の外に、狭い中庭を透かせていた・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・実際我我は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。 「いろは」短歌 我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・お君さんはその実生活の迫害を逃れるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠した。そこには一月六円の間代もなければ、一升七十銭の米代もない。カルメンは電燈代の心配もなく、気楽にカスタネットを鳴らしている。浪子夫人も苦労はするが、薬代の工面が出来・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・それから……僕は巻煙草をふかしながら、こう云う記憶から逃れる為にこのカッフェの中を眺めまわした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容子を改めていた。就中僕を不快にしたのはマホガニイま・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・龍雄はもう逃れる途はないと知りましたから、すべてのことを正直にうちあけました。その男は酔っていました。「しようのない奴だ。俺だから許してやるのだぞ。そんなら乗せてやる。そのかわり俺は眠るから、汽車がどの停車場に着いても、止まったときはき・・・ 小川未明 「海へ」
・・・その他には、この随筆から逃れる路が無くなっているのである。ちゃんとした理由である。私は、理由が無ければ酒を飲まないことにしている。きのうは、そのような理由があったものだから私は、阿佐ヶ谷に鹿爪らしい顔をして、酒を飲みに出かけたのである。阿佐・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・ポチから逃れるためだけでも、早く、引越してしまいたかったのだ。私は、へんな焦躁感で、仕事も手につかず、雑誌を読んだり、酒を呑んだりした。ポチの皮膚病は一日一日ひどくなっていって、私の皮膚も、なんだか、しきりに痒くなってきた。深夜、戸外でポチ・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・けれども事件がここまで進展して来た以上、後の二人の来ない中に女を抱いてでも逃れるより外に仕様がなかった。「サア、早く遁げよう! そして病院へ行かなけりゃ」私は彼女に云った。「小僧さん、お前は馬鹿だね。その人を殺したんじゃあるまいね。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・紂王はそのことによって自身の滅亡を早めこそすれ、それから逃れることはできなかった。そのことを歴史はわれわれに語っている。〔一九三四年十月〕 宮本百合子 「今日の文化の諸問題」
・・・ 自分がいればいるほど、大混雑になる家から逃れるようにして、彼は出来るだけ野良にばかり出ていた。 けれども、別にそう大して働かなければならないほどの仕事もない。 耕地の端れの柏の古木の蔭に横たわりながら、彼は様々な思いに耽ったの・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫