・・・が、まあせっかくだから――いつおいでになっても、私の談話が御役に立った試がないようだから――つまらん事でも責任逃れに話しましょう。 私が小説を書き出したのは、何年前からか確と覚えてもいないが、けっして古くはない。見方によればごく近頃であ・・・ 夏目漱石 「文壇の趨勢」
・・・星黒き夜、壁上を歩む哨兵の隙を見て、逃れ出ずる囚人の、逆しまに落す松明の影より闇に消ゆるときも塔上の鐘を鳴らす。心傲れる市民の、君の政非なりとて蟻のごとく塔下に押し寄せて犇めき騒ぐときもまた塔上の鐘を鳴らす。塔上の鐘は事あれば必ず鳴らす。あ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・私はもう責任を逃れたように考えていたものですから実は少々驚ろきました。しかしまだ一カ月も余裕があるから、その間にどうかなるだろうと思って、よろしゅうございますとまたご返事を致しました。 右の次第で、この春から十月に至るまで、十月末からま・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・といふ原稿書きをへし処に、彼子猫はやうやくいたづら子の手を逃れたりとおぼしくゆうゆうと我家に上り我横に寐居る蒲団の上、丁度我腹のあたりに蹲りてよごれ乱れたる毛を嘗め始めたり。妹は如何思ひけん糸に小き球をつけてこれを猫の目の前にあちこちと振り・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・と戯談にしてしまっては責任を逃れて居た。 隠居は、川窪がそう金の事などにがみがみしない家なのを幸にして、いずれ返さずばなるまい位に思って居るので、あまり張のない栄蔵のかけ合位ではさほど急いた気持にもならず、夜話しに息子と三十分ば・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・をやっておりますが、あの主人公のノラは、いままで夫に玩具にされていたということが不満であり、どうかして、玩具の生活から逃れたいといって、家出をする。あのノラの問題に残されているものは家を出てから、どんな生活を、ノラは樹てていったかということ・・・ 宮本百合子 「幸福について」
・・・アインシュタインがアメリカへゆき、ジョリオ・キューリー夫妻がパリーのキューリー研究所をすててスイスへ逃れたのはなんの理由によるだろう。ナチスは、ドイツ人だけが人類の中で繁栄すべき民族だと主張して、見識のせまい、偏見にみちた保守勢力に迎合した・・・ 宮本百合子 「世界の寡婦」
・・・の主人公ラヴィックが人間らしくまた医者らしい咄嗟の行動で往来の負傷者を救ったことからパリを逃れなければならなかった情景を思い起させる。 中里恒子氏の「マリアンヌ」その他の小説をよんだ人は、ファシズムの日本で国際結婚をして日本に来ていた外・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
・・・お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討にでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重の仇を討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の形に添うように離れぬと云うのであった・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・三郎の刀禰は、そうよ、父上もそこを逃れなされたか。門出の時この匕首をこの身に下されて『のう、忍藻、おこととおれとは一方ならぬ縁で……やがておれが功名して帰ろう日はいつぞとはよう知れぬが、和女も並み並みの婦人に立ち超えて心ざまも女々しゅうおじ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫