・・・で情夫の石田吉蔵を殺害して、その肉体の一部を斬り取って逃亡したという稀代の妖婦の情痴事件が世をさわがせたのは、たしか昭和十一年五月であったが、丁度その頃私はカフェ美人座の照井静子という女に、二十四歳の年少多感の胸を焦がしていた。 美人座・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 叔母に言うことができないとすれば、お幸と二人で土地を逃げる他に仕方がないと一度は逃亡の仕度をして武の家に出かけましたが、それもイザとなって踏み出すことができませんでした。と申すのは、『これが女難だな』という恐ろしい考えが、次第次第にた・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・彼の弟が二人あって、二人とも彼の兄、逃亡した兄に似て手に合わない突飛物、一人を五郎といい、一人を荒雄という、五郎は正作が横浜の会社に出たと聞くや、国元を飛びだして、東京に来た。正作は五郎のために、所々奔走してあるいは商店に入れ、あるいは学僕・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・二、三人の棒頭にピストルを渡すと、すぐ逃亡者を追いかけるように言った。「ばかなことをしたもんだ」 誰だろう? すぐつかまる。そしたらまた犬が喜ぶ! 眼下の線路を玩具のような客車が上りになっているこっちへ上ってくるのが見えた。疲れ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・ 去年の春ごろ、内山敏氏が、ある雑誌にトーマス・マンの長女のエリカ・マンが、弟のクラウス・マンと共著した「生への逃亡」について、エリカ・マンの活動を紹介しておられた。この短い伝記は、感銘のふかいものであった。知識階級の若い聰明な女性が、・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・フランス婦人の間に組織された大学卒業生の団体は、ナチスに占領されたフランスにおいて民主国の兵士を保護し、その人々を虐殺から救い国外に逃亡させてやるために大規模に活動した。ナチスに追われアメリカにいた各国の芸術家たちは、平和とファシズムに反対・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
・・・スープをひっくりかえして火傷をする程、ゴーリキイはその靴屋の小僧という境遇、奇妙な従兄のサーシャを嫌悪し逃亡を欲したのであった。 後年ゴーリキイは、「人々の中」で、この插話の思い出を非常に色濃く、感情をこめ、ディッケンズの俤を浮ばしめる・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・もと大夫には三人の男子があったが、太郎は十六歳のとき、逃亡を企てて捕えられた奴に、父が手ずから烙印をするのをじっと見ていて、一言も物を言わずに、ふいと家を出て行くえが知れなくなった。今から十九年前のことである。 奴頭が安寿、厨子王を連れ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・里に出て宿を取るときには、逃亡を怖れて老夫婦に磨り臼を背負わせた。老夫婦の受けた苦難はまことに惨憺たるものであったが、物語は特にその苦難を詳細に描いている。それは玉王の前に連れ出されたときの親子再会の喜びをできるだけ強烈ならしめるためであろ・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・ある日彼はついに苦心の結果一つのやり方を考案し、それでもなお師匠が彼を叱責するようであれば、思い切り師匠を撲り飛ばして逃亡しようと決心した。そうしてそのきわどい瞬間に達したときに、師匠は初めてうまいとほめた。自分の運命をその瞬間にかけるとい・・・ 和辻哲郎 「文楽座の人形芝居」
出典:青空文庫