・・・もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は咄嗟に身を起すと、錠のかかった入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が摺り剥けるばかりです。 六 その内に・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・やや暫らくすると場内から急にくつろいだ談笑の声が起った。そして二、三人ずつ何か談り合いながら小作者らは小屋をさして帰って行った。やや遅れて伴れもなく出て来たのは佐藤だった。小さな後姿は若々しくって青年のようだった。仁右衛門は木の葉のように震・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・行歩健かに先立って来たのが、あるき悩んだ久我どのの姫君――北の方を、乳母の十郎権の頭が扶け参らせ、後れて来るのを、判官がこの石に憩って待合わせたというのである。目覚しい石である。夏草の茂った中に、高さはただ草を抽いて二三尺ばかりだけれども、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・自然遅れて来たものは札が請取れないから、前日に札を取って置いて翌日に買いに来るというほど繁昌した。丁度大学病院の外来患者の診察札を争うような騒ぎであったそうだ。 淡島屋の軽焼の袋の裏には次の報条が摺込んであった。余り名文ではないが、淡島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・電信柱は、とうとう帰る時刻を後れてしまって、やむをえず、とてつもないところに突っ立って、なに知らぬ顔でいた。妙な男は独り、「おい、おい、電信柱さん、どうか下ろしてくれ。」と拝みながらいったが、もう電信柱は、声も出さなけりゃ、身動きもせん・・・ 小川未明 「電信柱と妙な男」
・・・ 銭占屋は二三日と私に約束して行ったが、遅れて七日めに、向地から渡ってきた蝙蝠傘の張替屋に托して二円送てくれた。向地は思のほかの不景気なところから、銭占屋は今十五里も先の何やら町へ行っていて、そこから托されてきたとのことであった。 ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ しかし急がねば遅れる。遅れたが最後無事には済むまい。「脱走したくなるのはこんな時だなア」 降るような星空を仰いで、白崎は呟いた。「ほんまに、そやなア」 赤井は隊の外へ出ると、大阪弁が出た。「――しやけど、脱走したら・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・夜、帰りの遅れた馬力が、紙で囲った蝋燭の火を花束のように持って歩いた。行一は電車のなかで、先刻大槻に聞いた社会主義の話を思い出していた。彼は受身になった。魔誤ついた。自分の治めてゆこうとする家が、大槻の夢に出て来た切符売場のように思えた。社・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・つくろわねどもおのずからなる百の媚は、浴後の色にひとしおの艶を増して、後れ毛の雪暖かき頬に掛かれるも得ならずなまめきたり。その下萌えの片笑靨のわずかに見えたる、情を含む眼のさりとも知らず動きたる、たおやかなる風采のさらに見過ごしがてなる、あ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・夕暮になりて幸助の帰りこぬに心づき、驚きて吾らもともに捜せし時はいうまでもなく事遅れて、哀れの骸は不思議にも源叔父が舟底に沈みいたり。「彼はもはやけっしてうたわざりき、親しき人々にすら言葉かわすことを避くるようになりぬ。ものいわず、歌わ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫