・・・ドーと遠くから響いてくる音、始めは気にも留めなかったが、やがて海の音と分った。私は町を放れて、暗い道を独り浦辺の方へ辿っているのであった。この困憊した体を海ぎわまで持って行って、どうした機でフラフラと死ぬ気にならないものでもないと思うと、き・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ンハミガキの広告灯が赤になり青になり黄に変って点滅するあの南の夜空は、私の胸を悩ましく揺ぶり、私はえらくなって文子と結婚しなければならぬと、中等商業の講義録をひもとくのだったが、私の想いはすぐ講義録を遠くはなれて、どこかで聞えている大正琴に・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・でも嬉やたった一ヵ所窓のように枝が透いて遠く低地を見下される所がある。あの低地には慥か小川があって戦争前に其水を飲だ筈。そう云えばソレ彼処に橋代に架した大きな砂岩石の板石も見える。多分是を渡るであろう。もう話声も聞えぬ。何国の語で話ていたか・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・たった一人残った父の姉なのだが、伯母は二カ月ほど前博覧会見物に上京して、父のどこやら元気の衰えたのを気にしながらも、こう遠くに離れてはお互いに何事があっても往ったり来たりはできないだろうから――こう言って別れたのだが、やっぱしそういうことに・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹に風が黒く渡る。と、やがて眼近い夾竹桃は深い夜のなかで揺れはじめるのであった。喬はただ凝視っている。――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・前を遶る渓河の水は、淙々として遠く流れ行く。かなたの森に鳴くは鶇か。 朝夕のたつきも知らざりし山中も、年々の避暑の客に思わぬ煙を増して、瓦葺きの家も木の葉越しにところどころ見ゆ。尾上に雲あり、ひときわ高き松が根に起りて、巌にからむ蔦の上・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・「けれども艶福の点において、われわれは樋口に遠く及ばなかった」と、上田は冷ややかに笑います、鷹見は、「イヤ、あんな男に限って、女にかあいがられるものサ、女の言いなりほうだいになっていて、それでやはり男だから、チョイと突っ張ってみる、・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 二 山が、低くなだらかに傾斜して、二つの丘に分れ、やがて、草原に連って、広く、遠くへ展開している。 兵営は、その二つの丘の峡間にあった。 丘のそこかしこ、それから、丘のふもとの草原が延びて行こうとしているあたり・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・になっているところ一体に桑が仕付けてあるその遥に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙でも媚き立つ年頃だけに紅いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装をして、小籃を片手に、節こそ鄙びてはおれど清らかな高い徹る声で、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・漫然と遠くからこれをのぞめば、まことに意味ありげであるが、近づいて仔細にこれを見れば、なんでもないのである。 わたくしは、かならずしもしいて死を急ぐ者ではない。生きられるだけは生きて、内には生をたのしみ、生を味わい、外には世益をはかるの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫