・・・…… 遠山の桜に髣髴たる色であるから、花の盛には相違ないが、野山にも、公園にも、数の植わった邸町にも、土地一統が、桜の名所として知った場所に、その方角に当っては、一所として空に映るまで花の多い処はない。……霞の滝、かくれ沼、浮城、もの語・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・私は、この、この窓から遥に巽の天に雪を銀線のごとく刺繍した、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……私は目を瞑った、ほとんだ気が狂ったのだとお察しを願いたい。 為業は狂人です、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私です。・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際少しあがりて、髪はやや薄けれども、色白くして口許緊り、上気性と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼の重げに見ゆるが、泣はらしたるとは風情異り、たとえば炬燵に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼し・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・近い山も、町の中央の城と向合った正面とは違い、場末のこの辺は、麓の迫る裾になり、遠山は波濤のごとく累っても、奥は時雨の濃い雲の、次第に霧に薄くなって、眉は迫った、すすき尾花の山の端は、巨きな猪の横に寝た態に似た、その猪の鼻と言おう、中空に抽・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・掛稲のきれ目を見ると、遠山の雪の頂が青空にほとばしって、白い兎が月に駈けるようである。下も水のごとく、尾花の波が白く敷く。刈残した粟の穂の黄色なのと段々になって、立蔽う青い霧に浮いていた。 と見向いた時、畦の嫁菜を褄にして、その掛稲の此・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ 就中、公孫樹は黄なり、紅樹、青林、見渡す森は、みな錦葉を含み、散残った柳の緑を、うすく紗に綾取った中に、層々たる城の天守が、遠山の雪の巓を抽いて聳える。そこから斜に濃い藍の一線を曳いて、青い空と一刷に同じ色を連ねたのは、いう迄もなく田・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 朝露しとしとと滴るる桑畑の茂り、次ぎな菜畑、大根畑、新たに青み加わるさやさやしさ、一列に黄ばんだ稲の広やかな田畝や、少し色づいた遠山の秋の色、麓の村里には朝煙薄青く、遠くまでたなびき渡して、空は瑠璃色深く澄みつつ、すべてのものが皆いき・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・松も遠山も見えずなりぬ。雨か。鳥の声のうたたけわしき。 二 半日の囲碁に互いの胸を開きて、善平はことに辰弥を得たるを喜びぬ。何省書記官正何位という幾字は、昔気質の耳に立ち優れてよく響き渡り、かかる人に親しく語らうを身・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・同二十四日――「木葉いまだまったく落ちず。遠山を望めば、心も消え入らんばかり懐し」同二十六日――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧たちこめて野や林や永久の夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・それで塵の層を通過して来た白光には、青紫色が欠乏して赤味を帯び、その代りに投射光の進む方向と直角に近い方向には、青味がかった色の光が勝つ道理である。遠山の碧い色や夕陽の色も、一部はこれで説明される。煙草の煙を暗い背景にあてて見た時に、青味を・・・ 寺田寅彦 「塵埃と光」
出典:青空文庫