・・・廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。ひどく・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・目がぐるぐるして来て、種々雑多な思いが頭の中を環のようにめぐりだした。遠方で打つ大砲の響きを聞くような、路のない森に迷い込んだような心地がして、喉が渇いて来て、それで涙が出そうで出ない。 痛ましげな微笑は頬の辺りにただよい、何とも知れな・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方の山影鮮やかに、国境を限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、銀の鎖の末は幽なる空に消えゆく雪の峰など、みな青年が心を夢心地に誘いかれが身うちの血わくが常なれど、今日・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・楠ちゃんにも列席してもらいたいとは思いますが、遠方のことでもあり、それに万事内輪にと思いますから、おまえたち兄妹の総代として鶏ちゃんに出席してもらうことにします。 とうさんがこの新しい方針を選んで進もうとするのは、いろいろ前途を熟考した・・・ 島崎藤村 「再婚について」
・・・何しろ、家を移すということは容易じゃ無いよ――加之に遠方と来てるからなあ」 相川は金縁の眼鏡を取除して丁寧に白いハンケチで拭いて、やがてそれを掛添えながら友達の顔を眺めた。「相川君、まだ僕は二三日東京に居る積りですから、いずれ御宅の・・・ 島崎藤村 「並木」
私は遊ぶ事が何よりも好きなので、家で仕事をしていながらも、友あり遠方より来るのをいつもひそかに心待ちにしている状態で、玄関が、がらっとあくと眉をひそめ、口をゆがめて、けれども実は胸をおどらせ、書きかけの原稿用紙をさっそく取・・・ 太宰治 「朝」
・・・彼に対する同情者は遠方から電報をよこしたりした。その中にはマクス・ラインハルトの名も交じっていた。 その後ナウハイムで科学者大会のあった時、特にその中の一日を相対論の論評にあてがった。その時の会場は何となく緊張していたが当人のアインシュ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ それは森宗匠がわざわざ遠方から取り寄せてくれたものであった。「芝居はどうやったいに」老母は尋ねた。「何しろ暑いんでね」「越後獅子は誰が踊るのや」「長三郎に魁車がつきあうのやけれど、すいた水仙のところなんか、何だか変なも・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・まではその地名さえも知られなかったセエヌの河畔は忽ちの間に散歩の人の雑沓を来すようになって、最初の発見者 Daubigny はとうとうセエヌ河の本流を見捨て Oise の支流を遡って Anvers の遠方へ逃げ込み、Corot はやっと水溜・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・次にその景色がだんだん大きくなって遠方から近づいて来る。気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端には男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停る。男は前に穴倉の裏で・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫