・・・ しかし同僚を瞞着するよりも常子の疑惑を避けることは遥かに困難に富んでいたらしい。半三郎は彼の日記の中に絶えずこの困難を痛嘆している。「七月×日 俺の大敵は常子である。俺は文化生活の必要を楯に、たった一つの日本間をもとうとう西洋間に・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ その言葉が終らない内に、おすみも遥かにおぎんの方へ、一生懸命な声をかけた。「おぎん! おぎん! お前には悪魔がついたのだよ。祈っておくれ。祈っておくれ。」 しかしおぎんは返事をしない。ただ眼は大勢の見物の向うの、天蓋のように枝・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・しかしわたしはそれらの背後に、もう一つ、――いや、それよりも遥かに意味の深い、興味のある特色を指摘したい。その特色とは何であるか? それは道徳的意識に根ざした、何物をも容赦しないリアリズムである。 菊池寛の感想を集めた「文芸春秋」の中に・・・ 芥川竜之介 「「菊池寛全集」の序」
・・・見るとMは遥かむこうの方で私と同じようなことをしています。私は駈けずりまわりながらも妹の方を見ることを忘れはしませんでした。波打際から随分遠い所に、波に隠れたり現われたりして、可哀そうな妹の頭だけが見えていました。 浜には船もいません、・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・後へ後へと群り続いて、裏山の峰へ尾を曳いて、遥かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。 で、何の・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・両国橋の落ちたる話も、まず聞いて耳に響くはあわれなる女の声の――人雪頽を打って大川の橋杭を落ち行く状を思うより前に――何となく今も遥かに本所の方へ末を曳いて消え行く心地す。何等か隠約の中に脈を通じて、別の世界に相通ずるものあるがごとくならず・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦しいのでなかろうか。自殺の凶器が、目前に横たわった時は、もはや身を殺す恐怖のふるえも静まっているのでなかろうか・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 遥かに聞ゆる九十九里の波の音、夜から昼から間断なく、どうどうどうどうと穏やかな響きを霞の底に伝えている。九十九里の波はいつでも鳴ってる、ただ春の響きが人を動かす。九十九里付近一帯の村落に生い立ったものは、この波の音を直ちに春の音と感じ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・時勢が違うので強ち直ちに気品の問題とする事は出来ないが、当時の文人や画家は今の小説家や美術家よりも遥かに利慾を超越していた。椿岳は晩年画かきの仲間入りをしていたが画かき根性を最も脱していた。椿岳の作品 が、画かき根性を脱していて、画・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 遥か、彼方には、海岸の小高い山にある神社の燈火がちらちらと波間に見えていました。ある夜、女の人魚は、子供を産み落すために冷たい暗い波の間を泳いで、陸の方に向って近づいて来ました。二 海岸に小さな町がありました。町にはい・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
出典:青空文庫