・・・「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与の書籍もその中にまじり居り候節は不悪御赦し下され度候。」 これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だった。僕はこう云う文句を読み、何冊かの本が焔になって立・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・生田花世氏がここへ来て、あんたはよいところでお死にになったと夫の遺骸に対して云ったと、私が詩碑の傍に立って西の方へ遠く突き出ている新緑の岬や、福部島や、近海航路の汽船が通っている海に見入っていると、丘の畑へ軽子を背負ってあがって行く話ずきら・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・ 僕と虹吉は、親爺が眠っている傍に持って行って、おふくろの遺骸を、埋めた。秋のことである。太陽は剃刀のようにトマトの畠の上に冴えかえっていた。村の集会所の上にも、向うの、白い製薬会社と、発電所が、晴れきった空の下にくっきりと見られるS町・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・松の多い静かな小山の上に遺骸が埋められた。墓地では讃美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、同級生などが佇立んで、この光景を眺めていた。 ある日、薄い色の洋傘を手にしたような都会風の婦人が馬場裏の高瀬の家を訪ねて来た。この・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・親戚の婦人たちが自由自在に泣けるのが不思議な気がした。遺骸を郊外山腹にある先祖代々の墓地に葬った後、なまなましい土饅頭の前に仮の祭壇をしつらえ神官が簡単なのりとをあげた。自分は二歳になる遺児をひざにのせたまま腰をかけてそののりとを聞いていた・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・……王の遺骸はそれから後もさまざまの奇蹟を現わすのであった。 私がこのセント・オラーフの最期の顛末を読んだ日に、偶然にも長女が前日と同じ曲の練習をしていた。そして同じ低音部だけを繰り返し繰り返しさらっていた。その音楽の布いて行く地盤の上・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・ 領事のほうからは、本国の家族から事後の処置に関する返電の来るまで遺骸をどこかに保管してもらいたいという話があって、結局M教授の計らいでM大学の解剖学教室でそれを預かることになった。 同教室に運ばれた遺骸に防腐の薬液を注射したのは、・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・ 最後の近くなったころ妻がそばへ行って呼ぶと、わずかにはい寄ろうとする努力を見せたが、もう首がぐらぐらしていた。次第に死の迫って来る事を知らせる息づかいは人間の場合に非常によく似ていた。 遺骸は有り合わせのうちでいちばんきれいなチョ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・それで急いで袋を縦に切り開いて見ると、はたして袋の底に滓のようになった簔虫の遺骸の片々が残っていた。あの肥大な虫の汁気という汁気はことごとく吸い尽くされなめ尽くされて、ただ一つまみの灰殻のようなものしか残っていなかった。ただあの堅い褐色の口・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室の外へ出している所もある。遥かの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。 遊里の光景とその生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲っていた。この哀調は、小説・・・ 永井荷風 「里の今昔」
出典:青空文庫