・・・ 逢うごとにいつもその悠然たる貴族的態度の美と洗錬された江戸風の性行とが、そぞろに蔵前の旦那衆を想像せしむる我が敬愛する下町の俳人某子の邸宅は、団十郎の旧宅とその広大なる庭園を隣り合せにしている。高い土塀と深い植込とに電車の響も自ずと遠・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。 私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の家か・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 私を通りすがりに、自動車に援け乗せて、その邸宅に連れて行ってくれる、小説の美しいヒロインも、そこには立っていなかった。おまけにセコンドメイトまでも、待ち切れなくなったと見えて、消え失せてしまっていた。 浚渫船の胴っ腹にくっついてい・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 私は私の恋人が、劇場の廊下になったり、大きな邸宅の塀になったりするのを見るに忍びません。ですけれどそれをどうして私に止めることができましょう! あなたが、若し労働者だったら、此セメントを、そんな処に使わないで下さい。 いいえ、よう・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・ 本田家は、それが大正年間の邸宅であろうとは思われないほどな、豪壮な建物とそれを繞る大庭園と、塀とで隠して静に眠っているように見えた。 邸宅の後ろは常磐木の密林へ塀一つで、庭の続きになっていた。前は、秋になると、大倉庫五棟に入り切れ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・官吏の経済事情は、旧市内のやけのこったところに邸宅をもつことは許さないから、多数の人々は、会社線をも利用して、遙々とたつきのためにいそしんでいるであろう。良人であり父親であるこれらの官吏たちが、わが妻、わが子をつれてたまの休日にいざ団欒的外・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・ 須藤さんの杉林は分譲地となって邸宅が並び、松平さんの空地は、九尺ばかりのコンクリート塀で囲われた。藤堂さんの森だったところは何軒も二階建の貸家が建ち並んでいる。表通りの小さい格子戸の家々の一画はとり払われて、ある大きい実業家の屋敷とな・・・ 宮本百合子 「からたち」
・・・誰かから、立派な邸宅をおくられた。ことわるほどのものでもなかったと見えて、それもうけとった。 漱石の妻君の弟に、建築家があった。その人は、建築家仲間がその姓名のゴロを合わせて、「アドヴァンテージ」というあだ名で呼ぶような人柄であった。漱・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
・・・とうとう立派な邸宅が出来上がった。 近所の人は驚いている。材木が運び始められる頃から、誰が建築をするのだろうと云って、ひどく気にして問い合せると、深淵さんだと云う。深淵と云う人は大きい官員にはない。実業家にもまだ聞かない。どんな身の上の・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・ 北方の高台には広々とした貴族の邸宅が並んでいた。そこでは最も風と光りが自由に出入を赦された。時には顕官や淑女がその邸宅の石門に与える自身の重力を考えながら自働車を駈け込ませた。時には華やかな踊子達が花束のように詰め込まれて贈られた。時・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫