・・・などいうだろうけれど、僕から見ればよくよくやむを得ぬという事情があるでもなく、二年も三年も妻子を郷国に置いて海外に悠遊し、旅情のさびしみなどはむしろ一種の興味としてもてあそんでいるのだ。それは何の苦もなくいわば余分の収入として得たるものとは・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・私はある時郷国の小学校に就て其の内幕をみるの機会を得たのであるが、其の風儀の壊廃は実に驚くに堪えたるものであった。それは矢張り政党等の内幕にあるような実情問題であった。何れの社会でも今日の状態ではきたない事はある。それが小学校に於て児童の事・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・彼の郷国も、罪名も、刑期も書いてはなかったが、しかしとにかく十九の年からもう七年もいて、まだいつごろ出られるとも書いてないところから考えても、容易ならぬ犯罪だったことだけは推測される。――とにかく彼は自分の「蠢くもの」を読んでいるのだ。・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・青森というのは耕吉の郷国だったので、彼もちょっと心ひかれて、どうした事情かと訊いてみる気になった。 小僧は前借で行っていた埼玉在の紡績会社を逃げだしてきたのだ。小僧は、「あまり労働が辛いから……」という言葉に力を入れて繰返した。そして途・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ただ何となく軒端に菖蒲を葺いた郷国の古俗を想い浮べて、何かしら東西両洋をつなぐ縁の糸のようなものを想像したのであったが、後にまたウィーンの歳の暮に寺の広場で門松によく似た樅の枝を売る歳の市の光景を見て、同じような空想を逞しゅうしたこともあっ・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・に、取付虫の寿林、ふる狸の清春という二人の歌比丘尼が、通りがかりの旅客を一見しただけですぐにその郷国や職業を見抜く、シャーロック・ホールムス的の「穿ち」をも挙げておきたい。 科学者としても理論的科学者でなくてどこまでも実験的科学者であっ・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・幼い子等には、まだ見たことのない父母の郷国が、お伽噺の中の妖精国のように不思議な幻像に満たされているように思われるらしい。例えば郷里の家の前の流れに家鴨が沢山並んでいて、夕方になると上流の方の飼主が小船で連れに来るというような何でもない話で・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・「一ぺん郷国へ帰りましてね、あすこも陰気でいやだから今度はこっちへ来たんです。」「そうかい。六原に居たんじゃ馬は使えるだろうな。」「使えます。」「いつまでこっちに居るつもりだい。」「ずっと居ますよ。」「そうか。」農夫・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・今度のは、私の郷国の名前では、柳雲飛鳥といいます。柳はサリックス、バビロニカ、です。飛鳥は燕です。日本でも、柳と燕を云いますか。」「云います。そしてよく覚えませんが、たしか私の方にも、その狼煙はあった筈ですよ。いや花火だったかな。それと・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
出典:青空文庫