・・・「どうも失礼……今日は二人で山遊びに出掛けて……酩酊……奥さん、申訳がありません……」 学士は上り框のところへ手をついて、正直な、心の好さそうな調子で、詫びるように言った。 体操の教師は磊落に笑出した。学士の肩へ手を掛けて、助け・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・たちまち酩酊いたしました。辻占売の女の子が、ビヤホールにはいって来ました。博士は、これ、これ、と小さい声で、やさしく呼んで、おまえ、としはいくつだい? 十三か。そうか。すると、もう五年、いや、四年、いや三年たてば、およめに行けますよ。いいか・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・映画や小説の芸術に酔うて盗賊や放火をする少年もあれば、外来哲学思想に酩酊して世を騒がせ生命を捨てるものも少なくない。宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈を動かして悔いない王者もあったようである。 芸術で・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・明治三十三年四月十五日の日曜日に向嶋にて警察官の厄介となりし者酩酊者二百五人喧嘩九十六件、内負傷者六人、違警罪一人、迷児十四人と聞く。雑沓狼藉の状察すべし。」云 わたくしはこれらの記事を見て当時の向嶋を回想するや、ここにおのずから露伴幸・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・見受ける処がよほど酩酊のようじゃが内には女房も待っちょるだろうから早う帰ってはどじゃろうかい。有り難うございます。………世の中に何が有難いッてお廻りさん位有難い者はないよ。こんな寒い晩でも何でもチャント立って往来を睨んで、何でも怪しいものと・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・○彼は運命の情熱的賭博においては賭物として遺憾なきまでに自らを投げ出すのである、なぜなら彼は赤と黒、死と生との流転の中にのみ酩酊の快さで自らの生存の全願望を感じるからである、○彼等には真直な方向や明確な目的が全然なく、すべての価値の・・・ 宮本百合子 「ツワイク「三人の巨匠」」
・・・自分の芸によって観客の感激――有頂天、大歓喜、大酩酊――の起こっている時、彼女は静かに、その情熱を自己の平生の性格の内に編みこむため、非常なる努力をしていた。この「貴い時」の神聖と喜悦と自由とを自己の第二の天性にしようとしていた。そしてつい・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫