・・・ところが何時の間にか伝統の縄張りが朽ちて跡方もなくなって、普通選挙の広い野原が解放されてしまった。これはいい事だか悪い事だか見当が付かないが、ともかくもどうする事も出来ない事実である。 そうなると、批評というものの意味はもう昔とは大分違・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・ 田園調布の町も尾久三河島あたりの町々も震災のころにはまだ薄の穂に西風のそよいでいた野原であった。 雑司ヶ谷、目黒、千駄ヶ谷あたりの開けたのは田園調布あたりよりもずっと時を早くしていた。そのころそのあたりに頻と新築せられる洋室付の貸・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・裏の窓より見渡せば見ゆるものは茂る葉の木株、碧りなる野原、及びその間に点綴する勾配の急なる赤き屋根のみ。西風の吹くこの頃の眺めはいと晴れやかに心地よし。 余は茂る葉を見ようと思い、青き野を眺めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ ――この上に、無限に高い空と、突っかかって来そうな壁の代りに、屋根や木々や、野原やの――遙なる視野――があればなあ、と私は淋しい気持になった。 陰鬱の直線の生活! 監獄には曲線がない。煉瓦! 獄舎! 監守の顔! 塀! 窓! 窓・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・素敵に灼きをかけられてよく研かれた鋼鉄製の天の野原に銀河の水は音なく流れ、鋼玉の小砂利も光り岸の砂も一つぶずつ数えられたのです。 またその桔梗いろの冷たい天盤には金剛石の劈開片や青宝玉の尖った粒やあるいはまるでけむりの草のたねほどの黄水・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ 噴火がやっとしずまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南の方からだんだん生えて、とうとうそこらいっぱいになり、それから柏や松も生え出し、しまいに、いまの四つの森ができました。けれども森にはまだ名前もなく、めいめい勝手に、おれ・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・ああ、野原、野原。私の慾しいものは、宝石よりも館よりも、唯一ふき、そよそよと新鮮に、瑞々しく、曠野の果から吹いて来る朝の軽風である。 図らぬ時に、私の田園への郷愁が募った。いつか、檜葉の梢の鳥は去って、庭の踏石の傍に、一羽の雀が降りて居・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 一月ほど日が立つ間には、川で雑魚をすくって居る娘も見たし野原の木の下で小さくて美くしい本によみふけって居るのも見たけれ共、娘が一人で居れば居るほどその傍を通る時は知らず知らずの間に早足にいそいで居るのだった。 雨のしとしとと降って・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ出かければ、山奥の青苔が褥となッたり、河岸の小砂利が襖となッたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大将の下知が……そこで命がなくなッて、跡は野原でこのありさまだ。死ぬ時にはさぞもが・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・外は色の白けた、なんということもない三月頃の野原である。谷間のように窪んだ所には、汚れた布団を敷いたように、雪が消え残っている。投げた烟草の一点の火が輪をかいて飛んで行くのを見送る目には、この外の景色が這入った。如何にも退屈な景色である。腰・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫