・・・その温泉は鉱泉を温める仕掛けになっているのだが、たぶん風呂番が火をいれるのをうっかりしているのか、それとも誰かが水をうめすぎたのであろう。けれど、気の弱い私は宿の者にその旨申し出ることもできず、辛抱して、なるべく温味の多そうな隅の方にちぢこ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・その隣りは竹林寺で、門の前の向って右側では鉄冷鉱泉を売っており、左側、つまり共同便所に近い方では餅を焼いて売っていた。醤油をたっぷりつけて狐色にこんがり焼けてふくれているところなぞ、いかにもうまそうだったが、買う気は起らなかった。餅屋の主婦・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 中棚とはそこから数町ほど離れた谷間で、新たに小さな鉱泉の見つかったところだ。 浅間の麓に添うた傾斜の地勢は、あだかも人工で掘割られたように、小諸城址の附近で幾つかの深い谷を成している。谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲いて・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・塩からかった。鉱泉なのであろう。そんなに、たくさん飲むわけにも行かず、三杯やっとのことで飲んで、それから浮かぬ顔してコップをもとの場所にかえして、すぐにしゃがんで肩を沈めた。「調子がええずら?」指輪は、得意そうに言うのである。私は閉口で・・・ 太宰治 「美少女」
・・・ナルザン鉱泉の空瓶をもってって牛乳を買う50к。ゴム製尻あてのような大きい輪パン一ルーブル。となりの車室の子供づれの細君が二つ買ってソーニャという六つばかりの姉娘の腕に一つ、新しい世界というインターナショナル抜スイのような名をもった賢くない・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・本当は、医者にチェッコのカルルスバード鉱泉へ行けと言われたのだが金がなかった。一九三〇年二月「ロンドン印象記」。秋「子供・子供・子供のモスクワ」を送る。『戦旗』に二三原稿を送った。或るものはついたが或るものはつかなか・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・こっちの温泉はドイツのバーデン・バーデンや何かと同じで、冷鉱泉をのんだり、医者に皆導かれて浴するので箱根へ行ったように、つくなり一風呂浴びて、ユカタに着かえるような気分は見られません。こちらは非常にリンゴが多い。それから乾草がよい。乾草車を・・・ 宮本百合子 「ロシアの旅より」
・・・またそれがこの地のさだめかという代りに「それがこの鉱泉の憲法か」などいう癖あり。ある時はわが大学に在りしことを聞知りてか、学士博士などいう人々三文の価なしということしたり顔に弁じぬ。さすがにことわりなきにもあらねど、これにてわれを傷けんとお・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫