・・・僕は何か救われたのを感じ、じっと夜のあけるのを待つことにした。長年の病苦に悩み抜いた揚句、静かに死を待っている老人のように。…… 四 まだ? 僕はこのホテルの部屋にやっと前の短篇を書き上げ、或雑誌に送ることにした。尤・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・実の御新造は、人づきあいはもとよりの事、門、背戸へ姿を見せず、座敷牢とまでもないが、奥まった処に籠切りの、長年の狂女であった。――で、赤鼻は、章魚とも河童ともつかぬ御難なのだから、待遇も態度も、河原の砂から拾って来たような体であったが、実は・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 膚を蔽うに紅のみで、人の家に澄まし振。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。 世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪まなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂って、路々の雪礫に目・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・よしそれは別として、長年の間には、もう些と家族が栄えようと思うのに、十年一日と言うが、実際、――その土手三番町を、やがて、いまの家へ越してから十四、五年になる。――あの時、雀の親子の情に、いとしさを知って以来、申出るほどの、さしたる御馳走で・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 世に親というものがなくなったときに、われらを産んでわれらを育て、長年われらのために苦労してくれた親も、ついに死ぬ時がきて死んだ。われらはいま多くのわが子を育てるのに苦労してるが……と考えた時、世の中があまりありがたくなく思われだした。・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・私どもは、長年石を探して歩いていますが、こういう珍しい石はこれまで、あまり手に入れたことがないのです。」と、店のものは答えました。 すると、智慧のある宝石商は、わざと嘲笑いました。「それは、おまえさんが、あまり世間を知らんからだ。こ・・・ 小川未明 「宝石商」
・・・そして、子供は流産したが、この疑いだけは長年育って来て、貧乏ぐらしよりも辛かった……。 そんなことがあってみれば、松本の顔が忘れられる筈もない。げんに眼の前にして、虚心で居れるわけもない。坂田は怖いものを見るように、気弱く眼をそらした。・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・いまさらわしが隠居仕事で候のと言って、腰弁当で会社にせよ役所にせよ病院の会計にせよ、五円十円とかせいでみてどうする、わしは長年のお務めを終えて、やれやれ御苦労であったと恩給をいただく身分になったのだ。治まる聖代のありがたさに、これぞというし・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・彼女の周囲にあった親しい人達は、一人減り、二人減り、長年小山に出入してお家大事と勤めて呉れたような大番頭の二人までも早やこの世に居なかった。彼女は孤独で震えるように成ったばかりでなく、もう長いこと自分の身体に異状のあることをも感じていた。彼・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ これこそ私の長年さがし求めていたところの恋人だ。古代そのままのにおい。純粋の、やまと。これは、全く日本のものだ。私は、おもむろに、かの同行の書生に向い、この山椒魚の有難さを説いて聞かせようと思ったとたんに、かの書生は突如狂人の如く笑い出し・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫