・・・ 導かるるまま、折戸を入ると、そんなに広いと言うではないが、谷間の一軒家と言った形で、三方が高台の森、林に包まれた、ゆっくりした荒れた庭で、むこうに座敷の、縁が涼しく、油蝉の中に閑寂に見えた。私はちょっと其処へ掛けて、会釈で済ますつもり・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・……これを見ると、羨ましいか、桶の蔭から、むくと起きて、脚をひろげて、もう一匹よちよちと、同じような小狗は出て来ても、村の閑寂間か、棒切持った小児も居ない。 で、ここへ来た時……前途山の下から、頬被りした脊の高い草鞋ばきの親仁が、柄の長・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・あるが、不幸に家族が少くって今ではお浪とその母とばかりになっているので、召使も居れば傭の男女も出入りするから朝夕などは賑かであるが、昼はそれぞれ働きに出してあるので、お浪の母が残っているばかりで至って閑寂である。特に今、母はお浪の源三を連れ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・っているが、その時分は隅田川沿いの寺島や隅田の村でさえさほどに賑やかではなくて、長閑な別荘地的の光景を存していたのだから、まして中川沿い、しかも平井橋から上の、奥戸、立石なんどというあたりは、まことに閑寂なもので、水ただ緩やかに流れ、雲ただ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみと・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・そういう時に軒の雨垂れを聞きながら静かに浴槽に浸っている心持は、およそ他に比較するもののない閑寂で爽快なものである。そういう日が年のうちに一日あることもあり、ないこともあるような気がする。そうだとすると生命のあるうちにそういう稀有な日を出来・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・ この幼い子供達のうちには我家が潰れ、また焼かれ、親兄弟に死傷のあったようなのも居るであろうが、そういう子等がずっと大きくなって後に当時を想い出すとき、この閑寂で清涼な神社の境内のテントの下で蓄音機の童謡に聴惚れたあの若干時間の印象が相・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・後ろには森を背負い、門前の小川には小橋がかかっている、なんとなしに閑寂な趣のあるいい土地だと思う。しかしこの小川の流れが衛生のほうから少し気になる点もあると思った。 電車は小学校の遠足のかえりでいっぱいであった。よんどころなく車掌台に立・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・こんな閑寂な武蔵野の片隅で、こういうものを聞くということが何となく面白かった。蜩の声を聞きながら俳諧に遊んだあとでは、なおさらそうであった。とにかく、この夏の夜の武蔵野で聞いたトリオ以来、ラジオに対する恐怖に似た心持だけは消えてしまったよう・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・ 電車の中では普通の意味での閑寂は味わわれない。しかしそのかわりに極度の混雑から来た捨てばちの落ち着きといったようなものがないでもない。乗客はみんな石ころであって自分もその中の一つの石ころになって周囲の石ころの束縛をあきらめているところ・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
出典:青空文庫