・・・ けれども、其なら彼はその耽美の塔に立て籠って、夕栄の雲のような夢幻に陶酔していると云うのだろうか、私は単純に、夢の宮殿を捧げて仕舞えない心持がする。夢で美を見るのと、醒めて美を見ると違うのに彼はおきているのだ。起きていて、心が彼方まで・・・ 宮本百合子 「最近悦ばれているものから」
・・・自分は飽食し、安穏に良人と召使とにかしずかれ、眉をかいた細君が、一種の自己陶酔の中で高々とうたい上げる祝詞のような皇軍の歌のかげに、生きて、食っているもののいいようのない脂のこさ、残酷さを感じる心は、決して銃後の女のまじめさと心やさしさに反・・・ 宮本百合子 「祭日ならざる日々」
・・・語りつつ彼の心に起る陶酔は、言葉にいつか装飾を加え、その興奮の快さは我を忘れさせます。其処で、智的で洗練された情緒の所有者である米国の女性は、正当に伸張された法律的、政治的権利を保有して、健全な美くしい肉体と倶に、総ての国家的文明に貢献して・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・紫式部は決して、優にやさし、というふぜいの中に陶酔していなかった。 藤原時代の栄華の土台をなした荘園制度――不在地主の経済均衡が崩れて、領地の直接の支配者をしていた地頭とか荘園の主とかいうものが土地争いを始めた。その争いに今ならば暴力団・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・年ごろからヒューマニズムの声があり、遅々として発展の困難を示しているが、日本におけるこのヒューマニズムの理解、把握の内部には、さきに述べたような要因と並んで封建時代の文学を支配していた人情、自己放棄の陶酔感などの尾が脈々と絡みついていて、一・・・ 宮本百合子 「全体主義への吟味」
・・・小市民の中にある客観的な、自己陶酔でない、歴史とともに前進してゆく進歩性、つまりブルジョア・リアリズムを着実な生成の過程で発展させてゆこうとする進歩性が、社会と芸術の前衛たりうるのではないでしょうか。前衛という言葉の意味は、歴史性のなかでま・・・ 宮本百合子 「第一回日本アンデパンダン展批評」
・・・曾ては彼があれほども徹した生活の感覚化への陶酔が、彼にあっては終に自身の高き悟性故に自縛の綱となった。それが彼の残した大いなる苦悶であった。此の潜める生来の彼の高貴な稟性は、終に彼の文学から我が文学史上に於て曾て何者も現し得なかった智的感覚・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・がこの場合、美の陶酔に自己の安んずる場所を認めるとすれば、それは右の諸種の道と異なった一つの特殊な道である。ここでは美への関心が善への関心の上に置かれる。そうしてあの苦しみが強ければ強いほど、この安心の方法もまたその意味を深めるのである。・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
・・・そうしてその肉感的な陶酔を神への奉仕であると信じている。さらにはなはだしいのは神前にささげる閹人の踊りである。閹人たちは踊りが高潮に達した時に小刀をもって腕や腿を傷つける。そうして血みどろになって猛烈に踊り続ける。それを見まもる者はその血の・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
・・・ 音楽に陶酔した彼らは、時々うっとりとした眼をあげて、あの神々しい偶像をながめる。彼らはもう自分自身のことなどを意識しない。彼らの心は偶像の内に融け入り、ただ無限の感謝と祝福との内に、強烈な光燿と全心の軽快とを経験するのである。――実際・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫