・・・そうすると父の機嫌は見る見る険悪になった。「そんなことはお前に言われんでもわかっている。俺しの聞くのはそんなことじゃない。理屈を聞こうとしとるんではないのだ。早田は俺しの言うことが飲み込めておらんから聞きただしているのじゃないか。もう一・・・ 有島武郎 「親子」
・・・時分よりもいっそう険悪な啀み合いを、毎晩のように自分は繰返した。彼女の顔にも頭にも生疵が絶えなかった。自分も生爪を剥いだり、銚子を床の間に叩きつけたりしては、下宿から厳しい抗議を受けた。でも昨今は彼女も諦めたか、昼間部屋の隅っこで一尺ほどの・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・そういう人間が多いから商売が険悪になって、西の方で出来たイカサマ物を東の方の田舎へ埋めて置いて、掘出し党に好い掘出しをしたつもりで悦ばせて、そして釣鉤へ引掛けるなどという者も出て来る。京都出来のものを朝鮮へ埋めて置いて、掘出させた顔で、チャ・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・兄妹五人、一ことでも、ものを言い出せば、すぐに殴り合いでもはじまりそうな、険悪な気まずさに、閉口し切った。 母は、ひとり離れて坐って、兄妹五人の、それぞれの性格のあらわれている語りかたを、始終にこにこ微笑んで、たのしみ、うっとりしていた・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・一家の空気は険悪になるばかりであった。このままでこの家庭が、平静に帰するわけはなかった。何か事件が、起らざるを得なくなっていた。 真夏に、東京郊外の、井の頭公園で、それが起った。その日のことは、少しくわしく書きしるさなければならぬ。朝早・・・ 太宰治 「花火」
・・・さすが守銭奴の私も、この暗中の、ただならぬ険悪の気配には、へたばった。それに自身の、守銭奴ぶりも、あさましくなって来て、「そんなに金が、ほしいのかね。待っている女房、子供もあるんだろう。僕にも覚えが有るよ。女房がヒステリイみたいに口やかまし・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・その時分から妙に電車の乗客の顔が不愉快に陰鬱にあるいは険悪に見え出したのである。そして色々な事を考えてみた。あまり確実な事は云われないが、西洋の電車ではこんな心持のした事はなかったように思う。勿論疲れた眠い顔や、中にはずいぶん緊張した顔もあ・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・これは荒川の河流が放水路の開通と共に、如何に険悪な天侯にも決して汎濫する恐れがなくなったためかとも思われる。吉原の遊廓外にあった日本堤の取崩されて平かな道路になったのも同じ理由からであろう。実例としては明治四十三年八月に起った水害の後、東京・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・それが午過になってまただんだん険悪に陥ったあげく、とうとう絶望の状態まで進んで来た時は、余が毎日の日課として筆を執りつつある「彼岸過迄」をようやく書き上げたと同じ刻限である。池辺君が胸部に末期の苦痛を感じて膏汗を流しながらもがいている間、余・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・が、何だか険悪であった。線香をいぶすのにも、お経を読むのにも早過ぎた。第一、室が広すぎた。余り片附きすぎてとりつき端がなかった。退屈凌ぎに飲食することは、前祝いのようで都合が悪かった。 不思議な事には、子供たちは誰一人、眼を泣きはらして・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
出典:青空文庫