・・・――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹の中を分けてゆきました。 しかし僕の目をさえぎるものはやはり深い霧ばかりです。もっとも時々霧の中から太い毛生欅や樅の枝が青あおと葉を垂らしたのも見えなかったわけではありません。それ・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・しかし犬は目の下に温泉宿の屋根が見えると、一声嬉しそうに吠えたきり、もう一度もと来た熊笹の中へ姿を隠してしまったと云う。一行は皆この犬が来たのは神明の加護だと信じている。 時事新報。十三日名古屋市の大火は焼死者十余名に及んだが、横関名古・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・じめじめした苔の間に鷺草のような小さな紫の花がさいていたのは知っている。熊笹の折りかさなった中に兎の糞の白くころがっていたのは知っている。けれどもいったい林の中を通ってるんだか、やぶの中をくぐっているんだかはさっぱり見当がつかなかった。ただ・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・山火事で焼けた熊笹の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋からは夜ごとに三味線の遠音が響くようになった。 仁右衛門は逞しい・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ここから見渡すことのできる一面の土地は、丈け高い熊笹と雑草の生い茂った密林でした。それが私の父がこの土地の貸し下げを北海道庁から受けた当時のこの辺のありさまだったのです。食料品はもとよりすべての物資は東倶知安から馬の背で運んで来ねばならぬ交・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・ト、今まで、誰一人ほとんど跫音を立てなかった処へ、屋根は熱し、天井は蒸して、吹込む風もないのに、かさかさと聞こえるので、九十九折の山路へ、一人、篠、熊笹を分けて、嬰子の這出したほど、思いも掛けねば無気味である。 ああ、山伏を見て、口で、・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖の中腹ぐらいな処を、熊笹の上へむくむくと赤いものが湧いて出た。幾疋となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱つくように……皆猿だ。 丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王の社がある。時々山奥から猿が出て来るとい・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 熊笹のびて、薄の穂、影さすばかり生いたれば、ここに人ありと知らざる状にて、道を折れ、坂にかかり、松の葉のこぼるるあたり、目の下近く過りゆく。女はその後を追いたりしを、忍びやかにぞ見たりける。駕籠のなかにものこそありけれ。設の蒲団敷重ね・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・あれは熊笹というやつか。見たばかりでも恐ろしげに、幅広で鋭くとがったあの笹の葉は忘れ難い。私はまた、水に乏しいあの山の上で、遠いわが家の先祖ののこした古い井戸の水が太郎の家に活き返っていたことを思い出した。新しい木の香のする風呂桶に身を浸し・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・われは池畔の熊笹のうえに腰をおろし、背を樫の古木の根株にもたせ、両脚をながながと前方になげだした。小径をへだてて大小凸凹の岩がならび、そのかげからひろびろと池がひろがっている。曇天の下の池の面は白く光り、小波の皺をくすぐったげに畳んでいた。・・・ 太宰治 「逆行」
出典:青空文庫