・・・ 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。「もう店しまうべえ」 父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから鳴った。「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ」 日が暮れかけると山は風の音ば・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・いや、足もとの熊笹を珍らしそうに眺めていますね。まるで、ぼけて居ります。それから、この縁側に腰を掛けて、眼をショボショボさせている写真、これも甲府に住んでいた頃の写真ですが、颯爽としたところも無ければ、癇癖らしい様子もなく、かぼちゃのように・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・道端の熊笹が雨に濡れているのが目に沁みるほど美しい。どこかの大きな庭園を歩いているような気もする。有名な河童橋は河風が寒く、穂高の山塊はすっかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香いがするが、そこから六百山の麓に沿うて二十・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・それはどこかの山から取って来た熊笹だか藪柑子だかといっしょに偶然くっついて運ばれて来た小さな芽ばえがだんだんに自然に生長したものである。はじめはほんの一二寸であったものが、一二尺になり、四五尺になり、後にはとうとう座敷のひさしよりも高くなっ・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・どうかすると熊笹の中に隠れて長い間じっとしていると思うと、急に鯉のはね上がるように高くとび出して、そしてキョトンとしてとぼけた顔をしている事もある。どうかすると四つ足を両方に開いて腹をぴったり芝生につけて、ちょうどももんがあの翔っているよう・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・「怪しからん、庭に狐が居る、乃公が弓を引いた響に、崖の熊笹の中から驚いて飛出した。あの辺に穴があるに違いない。」 田崎と抱車夫の喜助と父との三人。崖を下りて生茂った熊笹の間を捜したが、早くも出勤の刻限になった。「田崎、貴様、よく・・・ 永井荷風 「狐」
・・・片側は田圃で、片側は熊笹ばかりの中を鳥居まで来て、それを潜り抜けると、暗い杉の木立になる。それから二十間ばかり敷石伝いに突き当ると、古い拝殿の階段の下に出る。鼠色に洗い出された賽銭箱の上に、大きな鈴の紐がぶら下がって昼間見ると、その鈴の傍に・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・焼いた枕木でこさえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ。 *いま小樽の公園に居る。高等商業の標本室も見てきた。馬鈴薯からできるもの百五、六十種の標本が面白かった。この公園も丘になっている。白樺がたくさん・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫