・・・すべての楽器はただ一色の雑音の塊になって、表を走る電車の響きと対抗しているばかりである。でも曲の体裁を知るためと思って我慢して聞いていると、店員が何かぐあいでも直すためか、プラグを勝手に抜いたりまたさしたりするのでせっかくのシンフォニーは無・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・ が、乳色の、磨硝子の靄を通して灯を見るように、監獄の厚い壁を通して、雑音から街の地理を感得するように、彼の頭の中に、少年が不可解な光を投げた。 靄の先の光は、月であるか、電燈であるか、又は窓であるか、は解らなかったが光である事は疑・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・しかも、こちらは、愚劣な雑音の氾濫を頭から浴びせられているばかりで、それを調整するために自分の手を出すことはもちろん、やかましいスウイッチを切る自由さえも与えられていない。それは役所の日課の時間割によって、忠実になされているのであるから。私・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・ 都会の雑音は愈々膨れ拡った、荒々しい獣のように、私の目先を掠めて左右に黄色い電車や警笛をならす自動車が入り乱れて馳せ違う。ぱっと、一時に向う角の裁縫店の大飾窓に灯がついた。前に溜っていた群集は、俄に、見わけのつかない黒影のかたまりにと・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・それに、昼間から夜に移ろうとする夕靄、罩って段々高まって来る雑音、人間の引潮時の間に、この街上を眺めているのは面白かった。私はライオンの傍の電柱の下で、永い間群集を見た。四辺が次第に鳩羽色となり、街燈がキラキラ新しい金色で瞬き出すと、どんな・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
やっと、ラジオの全波が聴けるということになった。 そのことが放送されたのは、九月下旬の或夜であった。田舎の家で、雑音だらけのラジオながら、熱心に九時のニュースをきき、世界の動きが身に伝わる感じでいたら、それにつづいて、・・・ 宮本百合子 「みのりを豊かに」
・・・途中まで聞いていた誰やらの演説が、ただ雑音のように耳に聞えて、この島田に掛けた緋鹿子を見る視官と、この髪や肌から発散するを嗅ぐ嗅覚とに、暫くの間自分の心が全く奪われていたのである。この一刹那には大野も慥かに官能の奴隷であった。大野はその時の・・・ 森鴎外 「独身」
・・・この伴奏は、幸にして無頓著な聴官を有している私の耳をさえ、緩急を誤ったリズムと猛烈な雑音とで責めさいなむのである。 私は幾度か席を逃れようとした。しかし先輩に対する敬意を忘れてはならぬと思うので、私は死を決して堅坐していた。今でも私はそ・・・ 森鴎外 「余興」
・・・その時フィンクは疲れて過敏になった耳に種々雑多な雑音を聞いた。そしてその雑音を聞き定めようとしている。なんだかそれが自分に対してよそよそしい、自分に敵する物の物音らしく思われる。どうも大勢の人が段々自分の身に近寄って来はしないかというような・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫