一 神保町から小川町の方へ行く途中で荷馬車のまわりに人だかりがしていた。馬が倒れたのを今引起こしたところであるらしい。馬の横腹から頬の辺まで、雨上がりの泥濘がべっとりついて塗り立ての泥壁を見るようで・・・ 寺田寅彦 「断片(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 二 雨上がりに錦町河岸を通った。電車線路のすぐ脇の泥濘の上に、何かしら青い粉のようなものがこぼれている。よく見ると、たぶん、ついそこの荷揚場から揚げる時にこぼれたものだろう、一握りばかりの豌豆がこぼれている・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・こういう横町の二階の欄干から、自分は或る雨上りの夏の夜に通り過る新内を呼び止めて酔月情話を語らせて喜んだ事がある。また梅が散る春寒の昼過ぎ、摺硝子の障子を閉めきった座敷の中は黄昏のように薄暗く、老妓ばかりが寄集った一中節のさらいの会に、自分・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ドドドドドドドと重く地をふるわすとどろきにまじって、わーッ、わーッと人々の喚声がつたわって来た。雨上りの闇夜を、車輌のとどろきとともに運ばれてゆく喚声も次第に遠のいて、ついには全く聴えなくなってしまった。胸のどこかが引きはがされるような感じ・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・ 家までやとったまだ若い車夫はずるくて鈍間でゆるい足袋を雨上りのぬかるみにつけてベジャベジャベジャベジャ勢のない音を出してゆるゆると走った。 後から来た車がいかにも得意らしくスイスイと通り越して行くと私はかんしゃくを起して蹴込をトン・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ そんな、辛い気持になりながらも仙二は翌日は又そとに出た。 雨上りの路が大変悪かったんでどこにも娘のかげは見えなかった。 それから三日ちっとも娘の姿は見えなかった。 もう娘に会えないと心にきめて朝早く川沿を歩いて居た仙二は、・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・きょう此をかくのは、さっき雨上りの庭へ出て見たら離れの庭に白藤の花が今頃咲き出したのを見つけうれしさに興奮しました。貴方は、私達の祝いに貰った大きい白藤の花の鉢を、二階の廊下においていたことを覚えていらっしゃいますか? その白藤が今年はじめ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 五月初旬の雨上りの日、石川は久しぶりで病人の様子を見に行った。「旦那は?」「御散歩でしょう」 龍の髯を植えた小径から庭へ入ろうとする石川の行手に、ぱっと牡丹の花とその前に佇んで我を忘れている幸雄の姿が写った。この間来たとき・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・ 空は灰色である。雨上りのテームズ河に潮がさし、汽船が黒、赤、白。低い黒煙とともに流れる。架橋工事の板囲から空へ突出た起重機の鉄の腕が遠く聳えるウェストミンスタア寺院の塔の前で曲っている。河岸でも葉は黄色かった。トラックのタイアに黄葉が・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・車を降りて徒歩で降りることさえ、雨上がりなんぞにはむずかしい。鼠坂の名、真に虚しからずである。 その松の木の生えている明屋敷が久しく子供の遊場になっていたところが、去年の暮からそこへ大きい材木や、御蔭石を運びはじめた。音羽の通まで牛車で・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫