・・・ 明治三十八乙巳年十月吉日鏡花、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛がまたはらはら。「寒くなった、私、もう寝るわ。」「御寝なります、へい、唯今女中を寄越しまして、お枕頭もまた、」「いいえ、煙草は飲まない、お火な・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・目から蝋燭の涙を垂らして、鼻へ伝わらせて、口へ垂らすと、せいせい肩で呼吸をする内に、ぶるぶると五体を震わす、と思うとね、横倒れになったんだ。さあ、七顛八倒、で沼みたいな六畳どろどろの部屋を転摺り廻る……炎が搦んで、青蜥蜴ののたうつようだ。・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ と卓子の上へ、煙管を持ったまま長く露出した火鉢へ翳した、鼠色の襯衣の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立てるようにぐいと擡げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張り、両腕をずいと扱いて、「御免を被れ、行儀も作法も云っ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・あの声がキイと聞えるばかり鳴き縋って、引切れそうに胸毛を震わす。利かぬ羽を渦にして抱きつこうとするのは、おっかさんが、嘴を笊の目に、その……ツツと入れては、ツイと引く時である。 見ると、小さな餌を、虫らしい餌を、親は嘴に銜えているのであ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 紫玉は舷に縋って身を震わす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮のごとく漾いつつ。「口惜しいねえ。」 車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みもならず、――金方の計らいで、――万松亭という汀なる料理店に・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ ごんごん胡麻は老婆の蓬髪のようになってしまい、霜に美しく灼けた桜の最後の葉がなくなり、欅が風にかさかさ身を震わすごとに隠れていた風景の部分が現われて来た。 もう暁刻の百舌鳥も来なくなった。そしてある日、屏風のように立ち並んだ樫の木・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・突然強風が吹起こって家を揺るがし雨戸を震わすかと思うと、それが急にまるで嘘をいったように止んでただ沛然たる雨声が耳に沁みる。また五分くらいすると不意に思い出したように一陣の風がどうっと吹きつけてしばらくは家鳴り震動する、またぴたりと止む、す・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 白い壁について煌々あたりを輝やかしているいくつもの電燈のカーボン線を震わすような女の声が、マイクロフォンをとおして金属的に反響している。 ――このようにして、タワーリシチ! 五ヵ年計画はソヴェト鋳鉄生産額を世界第三位に、石炭採掘量・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・心を張りつめる不安を追って行くと、不安は暗の裡で無限に拡り、なほ子の心を震わす程強かった。これは夢中な心配だ、夢中な心配だ。なほ子は心配で強ばりながらそう思った。生活態度について互の意見が違い衝突することが屡々あった。それにも拘らず何と自分・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・揃ってお仕着せの薄灰色のガウンをかき合わせ、それだけは病わぬ舌によって空気を震わす盛な声が廊下に充満する。 Yは「ここの廊下、一寸養老院の感じだよ」と囁いた。 Y、牛乳の空びんやキセリの鍋を白いサルフェートチカにつつんで八時頃か・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
出典:青空文庫