・・・そうして昨今国民の耳を驚かす非常時非常時の呼び声はいっそうこの方向への進出を促すように見える。 東京市全部の地図が美しい大公園になってそこに運動場や休息所がほどよく配置され、地下百尺二百尺の各層には整然たる街路が発達し、人工日光の照明に・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。 それだから・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにくい言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらし・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・まさにこの意味においても日本が今「非常時」に際会していることを政府も国民も考えてもらいたいものである。 北氷洋の氷の割れる音は近づく運命の秋を警告する桐の一葉の軒を打つ音のようにも思われるのである。・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・一九三四年には「非常時」という言葉が用いられはじめて、プロレタリア文学運動の組織が破壊されたのちの日本の文化・文学が見出したものは、全面的な混迷と貧血とであった。「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」は総括的にこの時期を展望している。・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・ 市電では、一月に広尾の罷業を東交の篠田、山下等に売られてから全線納まらず「非常時」政策に抗して動揺しているのであった。 果して、昼ごろ髪をきっちり分けた車掌服の若い男が二人入って来た。一人が看守に住所姓名を云っている間に、他の一人・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・従来の文学青年的な純文学、神経質、非実行的、詮索ずきな作家気質をすてて、非常時日本の前線に活躍する官吏、軍人、実業家たちの生活が描かれなければならず、それ等の人々に愛読されるに足る小説が生れなければならないとする論である。「大人」という言葉・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・たとえば昨今のように「非常時」という一つの時代精神が基本となって、われわれの今日の文化が支配されているというが如きである。しかしながら、これは冷静に現実を観察すると一つの誤った考え方であることが分る。同じ今日においても世界は決して単一の時代・・・ 宮本百合子 「今日の文化の諸問題」
・・・それと同時に、この非常時に女が洋装をしていることは望ましくない。和服で通勤せよ、ということになった。それは真夏のことであった。タイピストたちは、今年はことに激しかった猛暑の中で大汗になり、袂を肩へかつぎあげて、残業で働いている。そういう話を・・・ 宮本百合子 「祭日ならざる日々」
・・・ブルジョア作家が自身の行づまりを感じ、創作力の衰弱をその作品に反映していたのはすでに二三年前から顕著な社会的現象であったが、昨年末は、その低下が特別まざまざと世間一般の読者にも感じられた。非常時情勢の重圧は、一方プロレタリア文学運動を未曾有・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
出典:青空文庫