・・・自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎えると云う好奇心に圧迫されて、廊下に先生の靴音が響いた時から、いつになくひっそりと授業の始まるのを待ちうけていた。所がその靴音が、日かげの絶えた、寒い教室の外に止まって、やがて扉が開かれると、――あ・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・彼はそこに立ったまま、こんな結果になった前後の事情を想像しながら遠ざかってゆく靴音を聞き送っていた。 その晩父は、東京を発った時以来何処に忘れて来たかと思うような笑い顔を取りもどして晩酌を傾けた。そこに行くとあまり融通のきかない監督では・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 医学士は取るとそのまま、靴音軽く歩を移してつと手術台に近接せり。 看護婦はおどおどしながら、「先生、このままでいいんですか」「ああ、いいだろう」「じゃあ、お押え申しましょう」 医学士はちょっと手を挙げて、軽く押し留・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・酔える足は捗取らで、靴音は早や近づきつ。老人は声高に、「お香、今夜の婚礼はどうだった」と少しく笑みを含みて問いぬ。 女は軽くうけて、「たいそうおみごとでございました」「いや、おみごとばかりじゃあない、おまえはあれを見てなんと・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・兵隊達は靴音を立て始めた。Sも歩き出した。ふと、Sの視線が私の視線に飛びこんで来た。微笑があった。私はSへの万歳がなかったことに今はじめて狼狽して、いきなりS君万歳とひとりで叫んだ。私の声は腹に力が足りなかったのか、かなり涸れた細い声で、随・・・ 織田作之助 「面会」
・・・そして耕吉の窓の下をも一二度、口鬚の巡査は剣と靴音とあわてた叫声を揚げながら、例の風呂敷包を肩にした、どう見ても年齢にしては発育不良のずんぐりの小僧とともに、空席を捜し迷うて駈け歩いていた。「巡査というものもじつに可愛いものだ……」耕吉は思・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。 彼等は、早朝から雪の曠野を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭をかじり、雪を食ってのどを湿した。 どちらへ行けばイイシに達しられるか! 右手向・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ それまで、汚れた床板の上に寝ころんで物憂そうにしていた豚が、彼等の靴音にびっくりして急に跳ね上った。そして荒々しく床板を蹴りながら柵のところへやって来た。 豚の鼻さきが一寸あたると柵はがた/\くずれるように倒れてしまった。すると豚・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・三時半を過ぎると、看護卒が卑屈な笑い方をして、靴音を忍ばし、裏門の方へ歩いて行った。五十銭持って、マルーシャのところへ遊びに行ったのだ。不安は病室の隅々まで浸潤してきた。栗本は夕飯がのどを通らなかった。平気でねているのは、片脚を切断した福島・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ でも、あくる日行くと、また、兎は二人が雪を踏む靴音に驚いて、長い耳を垂れ、草叢からとび出て来た。二人は獲物を見つけると、必ずそれをのがさなかった。「お前等、弾丸はどっから工面してきちょるんだ?」 上等看護長は、勤務をそっちのけ・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
出典:青空文庫