・・・しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと気に入った。 僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになかった。隣りの料理屋の地面から、丈の高いいちじくが繁り立って、僕の二階の家根を上までも越している・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ すると毎日、その時分になると、遠い町の方にあたって、なんともいえないよい音色が聞こえてきました。さよ子は、その音色に耳を澄ましました。「なんの音色だろう。どこから聞こえてくるのだろう。」と、独り言をして、いつまでも聞いています・・・ 小川未明 「青い時計台」
デパートの内部は、いつも春のようでした。そこには、いろいろの香りがあり、いい音色がきかれ、そして、らんの花など咲いていたからです。 いつも快活で、そして、また独りぼっちに自分を感じた年子は、しばらく、柔らかな腰掛けにからだを投げて・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ 露子の目には、それらの楽器は黙っているのですが、ひとつひとつ、いい、奇しい妙な、音色をたてて、震えているように見えたのであります。そして、晩方など、入り日の紅くさしこむ窓の下で、お姉さまがピアノをお弾きなさるとき、露子は、じっとそのそ・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ 二郎がそれを吹きますと、なんともいうことのできないやさしい、いい音色が流れ出たのであります。 いい音色は、沖の方へ流れてゆきました。 また、うねうねとつづいた灰色の山を越してゆきました。 そして、沖の方へいった音色は、波の・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・あのいい音色で歌う鳥は、姿もまた美しいには相違ないけれど、みずみずしい木の芽を見つけると、きっと、それをくちばしでつついて、食い切ってしまうからです。そのくせ、鳥は木が大きくなってしげったあかつきには、かってにその枝に巣を造ったり、また夜に・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・そのうちに、バイオリンを鳴らすのでした。 おじいさんの弾くバイオリンの音は、泣くように悲しい音をたてるかと思うと、また笑うようにいきいきとした気持ちにさせるのでした。その音色は、さびしい城跡に立っている木々の長い眠りをばさましました。ま・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・と、一人の旅人がいいますと、「美しいお姫さまがいられて、いい音楽の音色が、夜も昼もしているということだ。」と、また他の一人の旅人がいっていました。 こうして、旅人は、いろいろなうわさをしながら、そのお城の門の前を去ってしまったのであ・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・しかも、少年のまわしてくる金の輪は二つで、それがたがいにふれあって、よい音色をたてるのであります。太郎はかつてこんなに手ぎわよく輪をまわす少年を見たことがありません。いったいだれだろうと思って、かなたの往来を走って行く少年の顔をながめました・・・ 小川未明 「金の輪」
・・・三味線の音色は冴えなかった。それでも、やはり襖紙がふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。火鉢の前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているその容子が、いか・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫