・・・僕はただかの自ら敬虔の情を禁じあたわざるがごとき、微妙なる音調を尚しとするものである。 そこで文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少からざるを思うに、文章の生命はたしかにその半以上懸って音調の上にあることを信ずるのである・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・となだらかにまた頓着しない、すべてのものを忘れたという音調で誦するのである。 船は水面を横に波状動を起して、急に烈しく揺れた。 読経をはたと留め、「やあ、やあ、かしが、」と呟きざま艫を左へ漕ぎ開くと、二条糸を引いて斜に描かれたの・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、「御前、姫様はようようお泣き止みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」 伯はものいわで頷けり。 看護婦はわが医学士の前に進みて、「それでは、あなた」「よろしい」・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・と蚊の呻くようなる声して、ぶつぶついうその音調は、一たび口を出でて、唇を垂れ蔽える鼻に入ってやがて他の耳に来るならずや。異様なる持主は、その鼻を真俯向けに、長やかなる顔を薄暗がりの中に据え、一道の臭気を放って、いつか土間に立ってかの杖で土を・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ と一声、時彦は、鬱し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。 この一声を聞くとともに、一桶の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、「はい。」 と戦きたり。 時彦はいともの静に、「お前、このごろから茶を断ッた・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 尉官は太く苛立つ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、「汝、よく娶たな。」 お通は少しも口籠らで、「どうも仕方がございません。」 尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。「おい、謙三郎はど・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸の下にて、「はい、恐れ入りましてございます」 かく打ち謝罪るときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、饑えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸れたり。母は見るより人目も恥じ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・滑稽に聞える音調を、老人は真面目な顔で喋っていた。黄色い、歯糞のついた歯が、凋れた唇の間からのぞき、口臭が、喇叭状に拡がって、こっちの鼻にまで這入ってきた。彼は、息を吐きかけられるように不潔を感じた。「一寸居ってくれ給え。」 曹長は・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 宇都野さんの歌の音調にはやはり自ずからな特徴がある。それは如何なる点に存するか明白に自覚し得ないが、やはり子音母音の反復律動に一種の独自の方式があるためと思われる。ともかくもその効果はこの作者の歌に特殊の重味をつける。どうかするとあま・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
・・・ 連想には上記のように内容から来るもののほかにまた単なる音調から来る連想あるいは共鳴といったような現象がしばしばある。これはわれわれ連句するものの日常経験するところである。全く無意識に前句または前々句等の口調が出て来たがるので当惑するこ・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
出典:青空文庫