・・・何処かでホーイと人を呼ぶ声が風のしきりに闇に響く。 嵐だと考えながら二階を下りて室に帰った。机の前に寝転んで、戸袋をはたく芭蕉の葉ずれを聞きながら、将に来らんとする浦の嵐の壮大を想うた。海は地の底から重く遠くうなって来る。 こう云う・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・よく響くその声が、道太のうとうとしている耳にも聞こえた。お絹も寝床にいて、寝たふりで聞いていた。 道太は裏の家に大散財があったので、昨夜は夜中に寝床を下へもってきてもらって、姉妹たちの隣りの部屋に蚊帳を釣っていた。冷え冷えした風が流れて・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・少くともそれは二十世紀の今日洋服を着て葉巻を吸いながら聞くわれわれの心に響くべき三味線の呟きである。さればこれを改良するというのも、あるいはこれを撲滅するというのも、いずれにしても滅び行く三味線の身に取っては同じであるといわねばならぬ。珍々・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間にやら消えた。「夜もだいぶ更けた」「ほととぎすも鳴かぬ」「寝ましょか」 夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床に入る。 三十分の後彼ら・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・という事は、今でも有意味に響く。そこでこの心持ちが作の上にはどう現れているかと云うと、実に骨に彫り、肉を刻むという有様で、非常な苦労で殆ど油汗をしぼる。が、油汗を搾るのは責めては自分の罪を軽め度いという考えからで、羊頭を掲げて狗肉を売る所な・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・この良心の基礎から響くような子供らしく意味深げな調を聞けば、今まで己の項を押屈めていた古臭い錯雑した智識の重荷が卸されてしまうような。そして遠い遠い所にまだ夢にも知らぬ不思議の生活があって、限無き意味を持っている形式に現われているのが、鐘の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・夜、波の音は何故あのように闇にこもるように響くのだろう。耳を澄ましていると、「御免下さい」 婆さんが襖をあけた。「何にもありませんですがお仕度が出来ました、持って上ってようございますか」 陽子は気をとられていたので、いきなり・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・山々に響き谷々に響く。 空に聳えている山々の巓は、この時あざやかな紅に染まる。そしてあちこちにある樅の木立は次第に濃くなる鼠色に漬されて行く。 七人の知らぬ子供達は皆じいっとして、木精の尻声が微かになって消えてしまうまで聞いている。・・・ 森鴎外 「木精」
・・・何か仔細の有そうな様子でしたが問返しもせず、徳蔵おじに連られるまま、ふたりともだんまりで遠くもない御殿の方へ出掛て行ましたが、通って行く林の中は寂くッて、ふたりの足音が気味わるく林響に響くばかりでした。やがて薄暗いような大きい御殿へ来て、辺・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ このような淡い繊弱な画が、強烈な刺激を好む近代人の心にどうして響くか、と人は問うであろう。しかしその答えはめんどうでない。極度に敏感になった心には、微かな濃淡も強すぎるほどに響くのである、一方でワグナアの音楽が栄えながら他方でメエテル・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
出典:青空文庫