・・・先生は昔の事を考えながら、夕飯時の空腹をまぎらすためか、火の消えかかった置炬燵に頬杖をつき口から出まかせに、変り行く末の世ながら「いにしへ」を、「いま」に忍ぶの恋草や、誰れに摘めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、・・・ 永井荷風 「妾宅」
十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。 文鳥は三重吉の・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖を突いて、じっとしている。騒がしい往来の活動にはほとんど心を留めていない。自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。第九夜・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・仕方がないから蒲団に頬杖ついたままぼんやりとして庭をながめて居る。 おとといの野分のなごりか空は曇って居る。十本ばかり並んだ頭は風の害を受けたけれど今は起き直って真赤な頭を揃えて居る。一本の雁来紅は美しき葉を出して白い干し衣に映って居る・・・ 正岡子規 「飯待つ間」
・・・今日も昼からつづけさまに書いて居るので大分くたびれたから、筆を投げやって、右の肱を蒲団の外へ突いて、頬杖をして、暫く休んだ。熱と草臥とで少しぼんやりとなって、見るともなく目を張って見て居ると、ガラス障子の向うに、我枕元にあるランプの火の影が・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・その襦袢の上にお召のどてらを着て伊達をグルグル巻にして机の上に頬杖をついたお龍の様子をその背景になって居る地獄の絵と見くらべて男はそばに居るのが恐ろしいほど美くしいと思って見た。御龍のなめらかなひやっこいきめの間から段々自分の命を短くする毒・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・火がないので、真黒にむさくるしいストーブを見ながら、頬杖をついて、私はもう随分さっきから置いてきぼりにされた様な様子をして居る。 この頃漸々、学校の休になって、長い間かかって居たものを二三日前に書きあげたけれ共、それにつける丁度いい題に・・・ 宮本百合子 「草の根元」
・・・ 看守は小机に頬杖をついたまま、「きかなけりゃ駄目だ」「今上で私につたえろと云ったんだから、いいんです」「金あるのか」「あるわ、上にあるわ」 物臭さそうに看守は肩から立ち上って、「小父さァん」と小使いを呼んだ。・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・魚住もある時期この錯雑した事情にまけて、受動的な頬杖をついたような気分で暮すが、日頃目をかけていた黒須千太郎をこめる集団脱走事件がおこり、折からの大雪で凍死するにきまっている千太郎を救おうという情熱によって振い立ち、情熱をもって一事を敢行し・・・ 宮本百合子 「作品のテーマと人生のテーマ」
・・・尾崎紅葉君が頬杖を衝いた写真を写した時、あれは太郎の真似をしたのだと、みんなが云ったほど、太郎の写真は世間に広まっていたのである。その紅葉君で思い出したが、僕はこの芸者をきょう始て見たのではない。 この時より二年程前かと思う。湖月に宴会・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫