・・・ お蓮は涙を隠すように、黒繻子の襟へ顎を埋めた。「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――」「好いよ。好いよ。お前の云う事はよ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 前へ立った漁夫の肩が、石段を一歩出て、後のが脚を上げ、真中の大魚の鰓が、端を攀じっているその変な小男の、段の高さとおなじ処へ、生々と出て、横面を鰭の血で縫おうとした。 その時、小男が伸上るように、丸太棒の上から覗いて、「無慙や・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・鳳凰の髄、麒麟の鰓さえ、世にも稀な珍味と聞く。虹の目玉だ、やあ、八千年生延びろ、と逆落しの廂のはずれ、鵯越を遣ったがよ、生命がけの仕事と思え。鳶なら油揚も攫おうが、人間の手に持ったままを引手繰る段は、お互に得手でない。首尾よく、かちりと銜え・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 顎のあたりゆたかに艶よきおとよさんの顔は、どことなく重みがあった。随分おしゃべりな政さんなぞも、陰でこそかれこれ茶かしたようなことを言っても、面と向かってはすっかりてれてしまって戯言一つ言えない。おはまは先におとよさんが省作に気がある・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・しなやかに光沢のある鬢の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめの愛らしさ、頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷や、それらが悉く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言は云えなくなる・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・お君が長い顎を動かした。蕎麦屋と聴けば、僕も吉弥に引ッ込まれたことがあって、よく知っているから、そこへ行っている事情は十分察しられるので、いいことを聴かしてくれたと思った。しかし、この利口ではあるが小癪な娘を、教えてやっているが、僕は内心非・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・不精者らしいことは、その大きく突き出た顎のじじむさいひげが物語っている。小柄だが、角力取りのようにでっぷり肥っているので、その汚なさが一層目立つ。濡雑巾が戎橋の上を歩いている感じだ。 しかし、うらぶれた感じはない。少し斜視がかった眼はぎ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ 私を見ると、顎を上げて黙礼し、「しんみりやってる所を邪魔したかな」とマダムの方へ向いた。「阿呆らしい。小説のタネをあげてましてん。十銭芸者の話……」とマダムが言いかけると、「ほう? 今宮の十銭芸者か」と海老原は知っていて、・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 行一は毛糸の首巻に顎を埋めて大槻に別れた。 電車の窓からは美しい木洩れ陽が見えた。夕焼雲がだんだん死灰に変じていった。夜、帰りの遅れた馬力が、紙で囲った蝋燭の火を花束のように持って歩いた。行一は電車のなかで、先刻大槻に聞いた社会主・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・波止場近くの草ッ原の雑草は、一カ月見ないうちに、病人の顎ひげのように長く伸び乱れているのである。 やがて歩けるようになると私は杖をついて海岸伝いの道をあるいてみる。歩ける嬉しさ、坐れる嬉しさ、自然に接しられる嬉しさは、そのいずれも叶わぬ・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
出典:青空文庫