・・・とは、この女の生立ちと経歴とを語って余りあるものの如くに思われた。 僕は相手の気勢を挫くつもりで、その言出すのを待たず、「お金のはなしじゃないかね。」というと、お民は「ええ。」と顎で頷付いて、「おぼし召でいいんです。」と泰然として瞬き一・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・覗いたように折れた其端が笠の内を深くしてそれが耳の下で交叉して顎で結んだ黒い毛繻子のくけ紐と相俟って彼等の顔を長く見せる。有繋に彼等は見えもせぬのに化粧を苦にして居る。毛繻子のくけ紐は白粉の上にくっきりと強い太い線を描いて居る。削った長い木・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・あんなに角張った顎の所有者とは思わなかった。君の風ふうぼうはどこからどこまで四角である。頭まで四角に感じられたから今考えるとおかしい。その当時「その面影」は読んでいなかったけれども、あんな艶っぽい小説を書く人として自然が製作した人間とは、と・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・その時は指の股に筆を挟んだまま手の平へ顎を載せて硝子越に吹き荒れた庭を眺めるのが癖であった。それが済むと載せた顎を一応撮んで見る。それでも筆と紙がいっしょにならない時は、撮んだ顎を二本の指で伸して見る。すると縁側で文鳥がたちまち千代千代と二・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ちょうど犬がするように少し顎を持ち上げて、高鼻を嗅いだ。 名状しがたい表情が彼の顔を横切った。とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍の腕へ口を持って行った。 彼は、うまそうにそれを食い始めた。 もし安岡が立っているか、うず・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 歩哨はスナイドル式の銃剣を、向こうの胸に斜めにつきつけたまま、その眼の光りようや顎のかたち、それから上着の袖の模様や靴のぐあい、いちいち詳しく調べます。「よし、通れ」 伝令はいそがしく羊歯の森のなかへはいって行きました。 ・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・丁度、私が紐育の或大学寄宿舎に居た時日々顔を合わせたような、肥満した二重顎の婦人達ばかり、スカートをパッと拡げて居るのである。 隠れ乍らも、私の心は、深い悲哀に満されて居る。男を追って走り去った赤い洋服の娘のことが心掛りで仕方ないのであ・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・大抵下顎が弛んで垂れて、顔が心持長くなっているのである。室内の湿った空気が濃くなって、頭を圧すように感ぜられる。今のように特別に暑くなった時でなくても、執務時間がやや進んでから、便所に行った帰りに、廊下から這入ると、悪い烟草の匂と汗の香とで・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・灸は顎をひっ込めて少しふくれたが、直ぐまた黙って箸を持った。彼の椀の中では青い野菜が凋れたまま泣いていた。 三度目に灸が五号の部屋を覗くと、女の子は座蒲団を冠って頭を左右に振っていた。「お嬢ちゃん。」 灸は廊下の外から呼んでみた・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・私は石の上に腰をおろして、左の肱を右の膝に突いて、顎を手の甲にのせて、――そして考えに沈んだ。残った舟はもう二三艘になっていた。 私は思った。漁師の群れに貴い集中と純一とを認めたのは私の心に過ぎなかったではないか。彼らが浜から家へ帰る。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫