・・・第一顔色も非常に悪い。のみならず苛立たしさに堪えないように長靴の脚を動かしている。彼女はそのためにいつものように微笑することも忘れたなり、一体細引を何にするつもりか、聞かしてくれと歎願した。しかし夫は苦しそうに額の汗を拭いながら、こう繰り返・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ 帳簿に向かうと父の顔色は急に引き締まって、監督に対する時と同じようになった。用のある時は呼ぶからと言うので監督は事務所の方に退けられた。 きちょうめんに正座して、父は例の皮表紙の懐中手帳を取り出して、かねてからの不審の点を、からん・・・ 有島武郎 「親子」
・・・かして下さらないし、あなたの御容子でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶れてないで、もっと顔色も可かったもの……」「それです、・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・おとよさんは、今つい庭さきまで浮かぬ顔色できたのだけれど、みんなと三言四言ことばを交えて、たちまち元のさえざえした血色に返った。 おとよさんは、みなりも心のとおりで、すべてがしっかりときりっとして見るもすがすがしいほどである。おはまはお・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・そして、今しがた僕が読んで納めた手紙を手に取り、封筒の裏の差出し人の名を見るが早いか、ちょっと顔色を変え、「いやアだ」と、ほうり出し、「奥さんから来たのだ」「これ、何をします!」お袋は体よくつくろって、「先生、この子は、ほんとうに、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・海に千年、山に千年の老巧手だれの交際上手であったが、人の顔色を見て空世辞追従笑いをする人ではなかった。 淡島家の養子となっても、後生大事に家付き娘の女房の御機嫌ばかり取る入聟形気は微塵もなかった。随分内を外の勝手気儘に振舞っていたから、・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ すると髪の毛の伸びた、顔色の黒い、目の落ちくぼんだ子供は、じろじろとみんなの顔を見まわしました。「私は、けっして、うそをつきません。山にいて、いろいろほかの人間のできないことを修業しました。ほんとうに、みなさんが赤い鳥が呼んでほし・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ 大勢の見物もみんな顔色を失って、誰一人口を利く者がないのです。 爺さんは泣きながら、手や足や胴中を集めて、それを箱の中へ収いました。そして、最後に、子供の頭をその中へ入れました。それから、見物の方を向くと、こう言いました。「こ・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ しかし、その皮肉が通じたかどうか、顔色も声の調子も変えなかった。じっと前方を見凝めたまま相変らず固い口調で、「いいえ、上手と違いますわ。この頃は気持が乱れていますのんか、お手が下ったて、お習字の先生に叱られてばっかりしてますんです・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 斯う云われて、彼の顔色が変った。――鑵の凹みのことであったのだ。 それは、全く、彼にも想像にも及ばなかった程、恐ろしい意外のことであった。鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた鉄唖鈴で以て、左りぎっちょの逞しい腕に力をこめて、Kの口・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫