・・・停車場前で饂飩で飲んだ、臓府がさながら蚯蚓のような、しッこしのない江戸児擬が、どうして腹なんぞ立て得るものかい。ふん、だらしやない。他の小児はきょろきょろ見ている。小児三 何だか知らないけれどね、今、向うから来る兄さんに、糸・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・……ざっとまあ、饂飩屋だ。それからは、見た目にも道わるで、無理に自動車を通した処で、歩行くより難儀らしいから下りたんですがね――饂飩酒場の女給も、女房さんらしいのも――その赤い一行は、さあ、何だか分らない、と言う。しかし、お小姓に、太刀のよ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・前世の業と断念めて、せめて近所で、蕎麦か饂飩の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁げ腰のもったて尻で、敷居へ半分だけ突き込んでいた膝を、ぬいと引っこ抜いて不精に出て行く。・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・……他の旅館の庭の前、垣根などをぶらつきつつ、やがて総湯の前に近づいて、いま店をひらきかけて、屋台に鍋をかけようとする、夜なしの饂飩屋の前に来た。 獺橋の婆さんと土地で呼ぶ、――この婆さんが店を出すのでは……もう、十二時を過ぎたのである・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩でもねいし、鰌の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです」「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・その頃私は毎晩夜更かしをして二時三時まで仕事をするので十二時近くなると釜揚饂飩を取るのが例となっていた。下宿屋の女中を呼んで、頤をしゃくッて「宜いかい」というと直ぐに合点したもんだ。二葉亭も来る度毎に必ずこの常例の釜揚を賞翫したが、一つでは・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 下駄屋の前を通って、四ツ角を空の方へ折れたところで、饂飩屋にいたスパイがひょっこり立って出て来た。スパイは、饂飩屋で饂飩を食って金を払わない。お湯屋の風呂に入って、風呂銭を払わない、煙草屋で、煙草を借りて、そのまゝ借りッぱなしである。・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・栄子たちが志留粉だの雑煮だの饂飩なんどを幾杯となくお代りをしている間に、たしか暖簾の下げてあった入口から這入って来て、腰をかけて酒肴をいいつけた一人の客があった。大柄の男で年は五十余りとも見える。頭を綺麗に剃り小紋の羽織に小紋の小袖の裾を端・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・道端に荷をおろしている食物売の灯を見つけ、汁粉、鍋焼饂飩に空腹をいやし、大福餅や焼芋に懐手をあたためながら、両国橋をわたるのは殆毎夜のことであった。しかしわたくしたち二人、二十一、二の男に十六、七の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさとに、おのずか・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・やっぱり饂飩にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯の相談をする。「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで腹が突張ってたまらない」「では蕎麦か」「蕎麦も御免だ。僕は麺類じゃ、とても凌げない男だから」「じゃ何を食うつ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫