・・・ったのであるが、学生は、こんどは、げらげら笑い出して、それほど尊敬している人は、日本の作家の中には無い、ゲエテとか、ダヴィンチのお弟子になるんだったら、それくらいの苦心をしてもいいが、と嘯き、卓の上の饅頭を一つ素早く頬張った。青春無垢のころ・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・お隣りの、あのよく吠える犬が、今夜に限って、ちっとも吠えないところを見れば、君は、ゆうべ、あの犬に毒饅頭を食わせてやったにちがいない。むごいことをする奴だ。僕は、ゆうべ、塀の上から覗きこんでいる君の顔を、ちゃんと見て知っている。忘れるものか・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・こんな風であるから、これも自分には覚えておらぬが横浜から雇った車夫の中に饅頭形の檜笠を冠ったのがあったそうだ。仕合せに晴天が続いて毎日よく照りつける秋の日のまだなかなか暑かったであろう。斜めに来る光がこの饅頭笠をかぶった車夫の影法師を乾き切・・・ 寺田寅彦 「車」
・・・ 帰宅してみると猫が片頬に饅頭大な腫物をこしらえてすこぶる滑稽な顔をして出迎えた。夏中ぽつりぽつり咲いていたカンナが、今頃になって一時に満開の壮観を呈している。何とか云う名の洋紅色大輪のカンナも美しいが、しかし札幌円山公園の奥の草花園で・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ 高等学校では私もよく食った凱旋饅頭を五十も食って、あとでビットル散をなめたりしていたらしい。 大学は農科へ入学して、農芸化学を修めていたが、そのうちにはげしい神経衰弱にかかって学校を休学した。それきりどうしても再び出ようとは言わな・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・をしたり、百人一首をしたり、饅頭など御馳走になったりしたことがあるが、たいていは林が私の家へくる方が多かった。だって私は妹の守りをすることもあるし、忙がしいのだから、一緒になるにはそれより方法がないからだ。 ときどきは、私と一緒にこんに・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 牛込区内では○市ヶ谷冨久町饅頭谷より市ヶ谷八幡鳥居前を流れて外濠に入る溝川○弁天町の細流○早稲田鶴巻町山吹町辺を流れて江戸川に入る細流。 四谷新宿辺では○御苑外の上水堀○千駄ヶ谷水車ありし細流。 小石川区内では○植物園門前の小・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・市ヶ谷饅頭谷の貧しい町を通ると、三月の節句に近いころで、幾軒となく立ちつづく古道具屋の店先には、雛人形が並べてあったのを、お房が見てわたくしの袂を引いた。ほしければ買ってやろうというと、お房はもう娘ではあるまいし、ほしくはないと言ったので、・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・雪駄直しは饅頭形の籐笠をかぶり其の紐を顎にかけて結んでいたので顔は見えず、笠の下から顎の先ばかりが突出ているのが何となく気味悪く見られた。着物の裾をからげて浅葱の股引をはき、筒袖の絆纏に、手甲をかけ、履物は草鞋をはかず草履か雪駄かをはいてい・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・鋼で饅頭形の表を一面に張りつめてあるから、輝やける色さえも月に似ている。縁を繞りて小指の先程の鋲が奇麗に五分程の間を置いて植えられてある。鋲の色もまた銀色である。鋲の輪の内側は四寸ばかりの円を画して匠人の巧を尽したる唐草が彫り付けてある。模・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫