・・・まして、今しがたまでのこの座敷のことを思い浮べれば、何だか胸持ちが悪くなって来て、自分の身までが全くきたない毛だ物になっているようだ。香ばしいはずの皿も、僕の鼻へは、かの、特に、吉弥が電球に「やまと」の袋をかぶせた時の薄暗い室の、薄暗い肌の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 肉を炙る香ばしい匂いが夕凍みの匂いに混じって来た。一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。「俺の部屋はあすこだ」 堯はそう思いながら自分の部屋に目を注・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 香ばしい珈琲のにおいは、過去った方へ大塚さんの心を連れて行った。マルを膝に乗せて、その食卓に対い合っていた時の、彼女の軽い笑を、まだ大塚さんは聞くことが出来た。毛糸なぞも編むことが上手で、青と白とで造った円形の花瓶敷を敷いて、好い香の・・・ 島崎藤村 「刺繍」
一 榎木の実 皆さんは榎木の実を拾ったことがありますか。あの実の落ちて居る木の下へ行ったことがありますか。あの香ばしい木の実を集めたり食べたりして遊んだことがありますか。 そろそろあの榎木の実が落ちる・・・ 島崎藤村 「二人の兄弟」
・・・焦げた百合の香ばしいにおいや味も思い出したが、それよりもそれを炒ってくれた宿の人々の顔やまたそれに付きまとうた淡いロマンスなどもかなりにはっきりと思い出された。その時分の彼はたとえ少々の病気ぐらいにかかっても、前途の明るい希望を胸いっぱいに・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・ここの二階で毎朝寝巻のままで窓前にそびゆるガスアンシュタルトの円塔をながめながら婢のヘルミーナの持って来る熱いコーヒーを飲み香ばしいシュニッペルをかじった。一般にベルリンのコーヒーとパンは周知のごとくうまいものである。九時十時あるいは十一時・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・殊にこの香ばしい涼しい匂いは酸液から来る匂いであるから、酸味の強いものほど香気が高い。柚橙の如きはこれである。その他の一般の菓物は殆ど香気を持たぬ。○くだものの旨き部分 一個の菓物のうちで処によりて味に違いがある。一般にいうと心の方より・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・鶯の音のする方からは、夕方揚げものをする油の芳ばしい匂いも流れて来た。その匂いを深く鼻の穴に吸いこんで嗅ぐと、半歳近く湯にいれられぬ皮膚が、ほのかにうるおい、食慾も出るように感じるのであった。 商売 帳簿を立て並べた長い・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・私はゴーリキイの総体を、日向でかすかに香ばしい匂いを放っている年老いた樅の木のようだと感じた。 私たちは少しずつソヴェト文壇の話や、日本の文学のこと、ピリニャークの書いた日本印象記についての不満足な感想等を下手なロシア語で話した。ゴーリ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイによって描かれた婦人」
出典:青空文庫