・・・「じゃその馬の脚をつけよう。馬の脚でもないよりは好い。ちょっと脚だけ持って来給え。」 二十前後の支那人は大机の前を離れると、すうっとどこかへ出て行ってしまった。半三郎は三度びっくりした。何でも今の話によると、馬の脚をつけられるらしい・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・こう云うと、君は宮戸座か常盤座の馬の足だと思うだろう。ところがそうじゃない。そもそも、日本人だと思うのが間違いなんだ。毛唐の役者でね。何でも半道だと云うんだから、笑わせる。 その癖、お徳はその男の名前も知らなければ、居所も知らない。それ・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・馬肉はどうです、たべますか、俺は馬の皮をはぐのは名人なんだ、たべるなら、取りに来なさい、馬の脚一本背負わせてかえします。雉はどうです、山鳥のほうがおいしいかな? 俺は鉄砲撃ちなんだ。鉄砲撃ちの平田といえば、このへんでは、知らない者は無いんだ・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・或者は代言人の玄関番の如く、或者は歯医者の零落の如く、或者は非番巡査の如く、また或者は浪花節語りの如く、壮士役者の馬の足の如く、その外見は千差万様なれども、その褌の汚さ加減はいずれもさぞやと察せられるものばかりである。彼らはまた己れが思想の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・鼠色した鳩が二、三羽高慢らしく胸を突出して炎天の屋根を歩いていると、荷馬の口へ結びつけた秣桶から麦殻のこぼれ落ちるのを何処から迷って来たのか痩せた鶏が一、二羽、馬の脚の間をば恐る恐る歩きながら啄んでいた。人通は全くない。空気は乾いて緩に凉し・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・嘶く声の果知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻の常の如く、わが手綱の思うままに運びし時は、ランスロットの影は、夜と共に微かなる奥に消えたり。――われは鞍を敲いて追う」「追い付いてか」と父と妹は声を揃えて問う。「追い付ける時は既に遅く・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ほこりの中から、チラチラ馬の足が光った。 間もなくそれは近づいたのだ。ペムペルとネリとは、手をにぎり合って、息をこらしてそれを見た。 もちろん僕もそれを見た。 やって来たのは七人ばかりの馬乗りなのだ。 馬は汗をかいて黒く光り・・・ 宮沢賢治 「黄いろのトマト」
・・・「何するんだい、この糸」「糸じゃないよ」「糸だい」「馬の尻尾だよ」「ふーむ、本当? どこから持って来たの」「抜いて来たのさ」「――嘘いってら! 蹴るよ」「馬の脚は横へは曲りませんよ。擽ったがってフッフッフッっ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・そしてちょうど私の行った時最終日であった有名なニージュニの定期市――ゴーリキイが十代の時分この定期市の芝居で馬の脚をやったということのある定期市も、その一九二八年が最後で閉鎖された。ペルシャやカスピ海沿岸との通商関係は進歩して古風な酔どれだ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイによって描かれた婦人」
・・・ヴォルガ通いの汽船の皿洗いをし、聖画屋の小僧となり、ニージニの定期市での芝居小屋で、馬の脚的俳優となったりした。日本では西南の役があった次の年、一八七八年からの五、六年は少年ゴーリキイにとって朝から晩まで苦しい労働の時代であった。この時代、・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫