・・・温泉地からそれらの町へは、いずれも直通の道路があって、毎日定期の乗合馬車が往復していた。特にその繁華なU町へは、小さな軽便鉄道が布設されていた。私はしばしばその鉄道で、町へ出かけて行って買物をしたり、時にはまた、女のいる店で酒を飲んだりした・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ はしなく浮世の用事思いいだされければ朝とくより乗合馬車の片隅にうずくまりて行くてを急ぎたる我が行脚の掟には外れたれども「御身はいずくにか行き給う、なに修禅寺とや、湯治ならずばあきないにや出で給える」など膝つき合わす老女にいたわられたる・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・「ではね、『愉快な馬車屋』を弾いてください。」「なんだ愉快な馬車屋ってジャズか。」「ああこの譜だよ。」狸の子はせなかからまた一枚の譜をとり出しました。ゴーシュは手にとってわらい出しました。「ふう、変な曲だなあ。よし、さあ弾く・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・ ――相当…… 馬車を見つけなければならないのだそうだ。 ――ここに待ってて! いい? Y、赤帽つれてどっかへ去った。十分もして赤帽だけが戻って来た。最後の荷物を運ぶのについてったら、駅の正面に驢馬みたいな満州馬にひかせた支・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ がたがた馬車が、跳ね返る小馬に牽かれて駆けて往く。車台の上では二人の男、おかしなふうに身体を揺られている。そして車の中の一人の女はしかと両側を握って身体の揺れるのを防いでいる。 ゴーデルヴィルの市場は人畜入り乱れて大雑踏をきわめて・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・同一の人が同一の場所へ請待した客でありながら、乗合馬車や渡船の中で落ち合った人と同じで、一人一人の間になんの共通点もない。ここかしこで互に何か言うのは、時候の挨拶位に過ぎない。ぜんまいの戻った時計を振ると、セコンドがちょっと動き出して、すぐ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・警察の事に明るい人は誰も知っているだろうが、毎晩市の仮拘留場の前に緑色に塗った馬車が来て、巡査等が一日勉強して拾い集めた人間どもを載せて、拘留場へ連れて行く。ちょうどこれと同じように墓地へも毎晩緑色に塗った車が来て、自殺したやくざものどもを・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「馬車はまだかのう?」 彼女は馭者部屋を覗いて呼んだが返事がない。「馬車はまだかのう?」 歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ・・・ 横光利一 「蠅」
・・・やがて二頭曳の馬車の轟が聞えると思うと、その内に手綱を扣えさせて、緩々お乗込になっている殿様と奥様、物慣ない僕たちの眼にはよほど豪気に見えたんです。その殿様というのはエラソウで、なかなか傲然と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そのころ私はナンキン町のシナ料理をわりによく知っていたので、そこへ案内しようかと思ったが、しかし文人画を見せてもらう交渉をまだしていないことがさすがに気にかかり、馬車道の近くの日盛楼という西洋料理屋へはいって、昼食をあつらえるとすぐ三渓園へ・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫