・・・ 沓掛駅の野天のプラットフォームに下りたった時の心持は、一駅前の軽井沢とは全く別である。物々しさの代りに心安さがある。 星野温泉行のバスが、千ヶ滝道から右に切れると、どこともなくぷんと強い松の匂いがする。小松のみどりが強烈な日光に照・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 十 四、五月頃に新宿駅前から帝都座前までの片側の歩道にヨーヨーを売る老若男女の臨時商人が約二十人居た。それが、七月半ば頃にはもう全く一人も居なくなってしまった。そうしてその頃からマルキシストの転向が新聞紙上・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・ 大宮駅でおりて公園までぶらぶら歩いた。駅前の町には「螢五家宝」というお菓子を売る店が並んでいる。この「五家宝」という名前を見ると私の頭の中へは、いつでも埼玉県の地図が広げられる。そうしてあのねちねちした豆の香をかぐような思いがする。・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 彼は、待合室から、駅前の広場を眺めた。 陽光がやけに鋭く、砂利を焙った。その上を自動車や、電車や、人間などが、焙烙の上の黒豆のように、パチパチと転げ廻った。「堪らねえなあ」 彼は、窓から外を見続けていた。「キョロキョロ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ひっそり砂利を敷きつめた野天に立つ告知板の黒文字 しらおか 寂しい駅前の光景が柔かく私の心を押した。「白岡ですよ」 婆さんは袋と洋傘とを今度は一ツずつ左右の手に掴み、周章てて席を出たが、振り返り、「あの、私の降りるのここでござん・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・けれども猫を捨てる海岸の場面、駅前の小料理屋の場面などで、妻の顔は言葉を失ってどちらかというとただの女の顔になってしまっている。そしてこの場面こそ心理的には全篇の中の一番緊張した部分であった。 ある外国人が書いているものの中で日本の民衆・・・ 宮本百合子 「映画の恋愛」
・・・ボルドーには避難して来た人々があふれていて、キュリー夫人では重くて運びきれない百万フランの価格を持っている一グラムのラジウム入の箱を足許に置いたまま、危く駅前の広場で夜明しをしそうな有様であった。偶然、一人の官吏が彼女を助けた。やっと夜をし・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・ 或る晩、ひろ子は、心のもってゆき場がなくなって、駅前の通りへふらりと出て行った。よしず張りの植木屋があって、歩道に風知草の鉢が並んでいた。たっぷり水をうたれ、露のたまった細葉を青々と電燈下にしげらせている風知草の鉢は、異常にひろ子をよ・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・昨年二月の二十六日に東京駅前の大通りをずっとつき当りの広場の方へ通った通行人は、あちらを背にして、駅に向った方に前面を向けて整列している一団の兵を、余程後になってから、「今からでもおそくない」と云った方ではなくて云われた方の側であったことを・・・ 宮本百合子 「文学上の復古的提唱に対して」
・・・ 尾世川は、しまってあるステッキをわざわざ戸棚から出し、それを腕にかけて外へ出た。 駅前の広場で、撒水夫がタッタッタッ車を乱暴に引き廻して水を撒いている。それをよけ、構内へ入ると俄に目先が暗いように感じられた。その午後はそんないい天・・・ 宮本百合子 「帆」
出典:青空文庫