・・・石鹸は自分にとって途方もなく高価い石鹸であった。自分は母のことを思った。「奎吉……奎吉!」自分は自分の名を呼んで見た。悲しい顔付をした母の顔が自分の脳裡にはっきり映った。 ――三年ほど前自分はある夜酒に酔って家へ帰ったことがあった。・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・ 彼はそれが自分自身への口実の、珈琲や牛酪やパンや筆を買ったあとで、ときには憤怒のようなものを感じながら高価な仏蘭西香料を買ったりするのだった。またときには露店が店を畳む時刻まで街角のレストランに腰をかけていた。ストーヴに暖められ、ピア・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・炭一片とお言いだけれど、どうだろうこの頃の炭の高価いことは。一俵八十五銭の佐倉があれだよ」とお徳は井戸から台所口へ続く軒下に並べてある炭俵の一を指して、「幾干入てるものかね。ほんとに一片何銭に当くだろう。まるでお銭を涼炉で燃しているようなも・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・帽子の下に天子印の、四五間さきの空気をくんくんさせる高価な化粧品をしのばせていた。そして、彼らが市街のいずれかへ消えて行って、今夜ひっかえしてくる時には、靴下や化粧品のかわりに、ルーブル紙幣を、衣服の下にかくしている。そんな奴があった。・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・そして、銅は高価の絶頂にあった。彼等は、祖父の時代と同様に、黙々として居残り仕事をつゞけていた。 大正×年九月、A鉱山では、四千名の坑夫が罷業を決行した。女房たちは群をなして、遠く、東京のT男爵邸前に押しよせた。K鉱山でもJ鉱山でも、卑・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・絵なども、ただ高価ないい絵具を使っているというだけで、他に感服すべきところを発見できなかった。その兄が、その夏に、東京の同人雑誌なるものを、三十種類くらい持って来て、そうしてその頃はやりの、突如活字を大きくしたり、またわざと活字をさかさにし・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・それに今夜は、も少し高価なものを食いたかった。「すしは、困るな。」「でも、あたしは、たべたい。」かず枝に、わがままの美徳を教えたのは、とうの嘉七であった、忍従のすまし顔の不純を例証して威張って教えた。 みんなおれにはねかえって来・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・これ、このようにお着物が濡れてしまったではないか、それに、こんな高価な油をぶちまけてしまって、もったいないと思わないか、なんというお前は馬鹿な奴だ。これだけの油だったら、三百デナリもするではないか、この油を売って、三百デナリ儲けて、その金を・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・そしてきのう貰った高価の装飾品をでも、その贈主がきょう金に困ると云えば、平気で戻してくれる。もしその困る人が一晩の間に急に可哀くなった別人なら、その別人にでも平気で投げ出してくれる。 ポルジイとドリスとはその頃無類の、好く似合った一対だ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・筆集の表紙にこの木綿を使いたいと思って店員に相談してみたが、古い物をありだけ諸方から拾い集めたのだから、同じ品を何反もそろえる事は到底不可能だというので遺憾ながら断念した、新たに織らせるとなるとだいぶ高価になるそうである。こんなに美しいと思・・・ 寺田寅彦 「糸車」
出典:青空文庫