・・・ 苦しさだの、高邁だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。書け。落語でも、一口噺でもいい。書かないのは、例外なく怠惰である。おろかな、おろかな、盲信である。人は、自分以上の仕事もできないし、自分以下の仕事もできない。働かな・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆をしくもの、もって識見高邁、凡俗に超越するところあるを見るに足る。しこうして世人は俊頼と文雄を知りて、曙覧の名だにこれを知らざるなり。 曙覧の事蹟及び性行に関しては未だこれを聞く・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・横光利一の「高邁」と「自由な自意識」がファッシズムのもとにどんなに圧しひしがれ同調したかということは後にあらわれる「厨房日記」その他において示された。「冬を越す蕾」は、同じ一九三四年の十一月にかかれ、複雑で困難な転向の問題をとりあげてい・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・にあるすべては、それらの問題をわりきってしまった者として生きる作家としての自分、などという風な高邁な気風に立って、蜿蜒としてよこたわる中産階級の崩壊の過程と人間変革のテーマを扱う能力は文学的にないし、人間的にない。わたしは、これから担ぎ出し・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
・・・人生と文学とにおける高邁な精神という標語である。「高邁なる精神」は横光利一氏とその作品「紋章」をとり囲む一帯から生じた。高邁にして自由な精神とは「自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることの出来る闊達自在な精神」であるとして横光氏によっ・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・不安への批判の精神を否定した出発は、窮局に於て人間精神が不安に翻弄される結果となり、不安を自己目的として不安する状態を、精神の高邁とするようなポーズをも生じた。人間のモラルを現実とのとりくみの間にうち立ててゆくことが目指されずに、観念の中で・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・以上のような安価な見透しに立って、インテリゲンチア作家たちは、つまりマルクス主義のこちら側で、自己をうちたてよう、強い自己を文学の上にうちたてて右からの波、左からの吸引に対し、高邁に己れ一人を持そうとしていると観察されるのである。純文学家が・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・無礼を顧ずいえば、彼等は僧として、高邁な信仰を得ようとする熱意も失っていると同時に、芸術的美に沈潜することによって、更に純一な信心に甦るだけの強大な直観も持っていないようだ。自分達の本堂に在す仏を拝んでは、次の瞬間に冷静な美術批評家ぶって見・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・品を厳密に批判すれば、種々不足としてあげられる諸点はあるが、同志小林が、たゆまず倦まず、日本におけるプロレタリア運動のレーニン的発展過程に照応し、正しい革命的理論を創作活動のうちに生かそうとしつづけた高邁な努力は、プロレタリア作家の典型であ・・・ 宮本百合子 「同志小林の業績の評価に寄せて」
・・・同じ程度の現実に対する無知がその実質であったとしても、これまでの作家横光は、少くともその作家的姿態に於ては、何か高邁なるものを求めようとしている努力の姿において自身を示して来た。内容はどういうものにしろ、高邁な精神という流行言葉が彼の周囲か・・・ 宮本百合子 「「迷いの末は」」
出典:青空文庫