・・・の字亭のお上の話によれば、色の浅黒い、髪の毛の縮れた、小がらな女だったと言うことです。 わたしはこの婆さんにいろいろの話を聞かせて貰いました。就中妙に気の毒だったのはいつも蜜柑を食っていなければ手紙一本書けぬと言う蜜柑中毒の客の話です。・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・おかあさんなんかは一度も見たことのないような変な着物を着て、髪の毛なんかはめちゃくちゃになって、顔も手もくすぶったようになっていた。ぼくたちを見るといきなり駆けよって来て、三人を胸のところに抱きしめて、顔をぼくたちの顔にすりつけてむせるよう・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・フレンチは気の遠くなるのを覚えた。髪の毛の焦げるような臭と、今一つ何だか分からない臭とがする。体が顫え罷んだ。「待て。」 白い姿は動かない。黒い上衣を着た医者が死人に近づいてその体の上にかぶさるようになって何やらする。「おしまい・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ならんとする、瞬間に異ならず。 同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ おとよさんは冷たい髪の毛を省作の湯ぼてりの顔へふれる。省作も今は少し気が落ちついている。女の髪の毛が顔へふれた時むらむらとおとよさんがいじらしくなった。おとよさんは柿を省作の袂へ入れ、その手で省作の手をとった。こんな場合を初めて経験す・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・と、U氏は両手で頭を抱えて首を掉り掉り苦しそうに髪の毛を掻き揉った。「君はYから何も聞かなかったかい?」「何にも聞きません。」「こんな弱った事はない、」と、U氏は復た暫らく黙してしまった。やがて、「君は島田のワイフの咄を何処かで聞い・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ すると髪の毛の伸びた、顔色の黒い、目の落ちくぼんだ子供は、じろじろとみんなの顔を見まわしました。「私は、けっして、うそをつきません。山にいて、いろいろほかの人間のできないことを修業しました。ほんとうに、みなさんが赤い鳥が呼んでほし・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・人一倍髪の毛が長く、そして黒い。いわばこの長髪だけが無疵で残って来たという感じである。おまけにこの長髪には、ささやかながら私の青春の想い出が秘められているようである。男にも髪の歴史というものがないわけではない。 二・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と脱落ち、地体が黒い膚の色は蒼褪めて黄味さえ帯び、顔の腫脹に皮が釣れて耳の後で罅裂れ、そこに蛆が蠢き、脚は水腫に脹上り、脚絆の合目からぶよぶよの肉が大きく食出し、全身むくみ上って宛然小牛のよう。今日一日太・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 印度人は席へ下りて立会人を物色している。一人の男が腕をつかまれたまま、危う気な羞笑をしていた。その男はとうとう舞台へ連れてゆかれた。 髪の毛を前へおろして、糊の寝た浴衣を着、暑いのに黒足袋を穿いていた。にこにこして立っているのを、・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫