・・・白き腕のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の袖は、胸を過ぎてより豊かなる襞を描がいて、裾は強けれども剛からざる線を三筋ほど床の上まで・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 改札口でなしに、小荷物口の方に向って、三四十人の人の群が、口々に喚き、罵り、殴り、髪の毛を引っ掴みながら、揺ぎ出した岩のようにノロノロと動いて行った。 その中に、が小荷物受渡台の上に彼自身でさえ驚くような敏捷さで、飛び上った。そし・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・栗色の髪の毛がマドンナのような可哀らしい顔を囲んでいる若後家である。その時の場所はどんな所であったか。イソダンの小さい客間である。俗な、見苦しい、古風な座敷で、椅子や長椅子には緋の天鵝絨が張ってある。その天鵝絨は物を中に詰めてふくらませてあ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・それに何だか咽が締るようで、髪の毛が一本一本上に向いて立つような心持がする。どうぞ帰ってくれい。お前は死だな。ここに何の用がある。ええ気味の悪い。どうぞ帰ってくれい。ええ、声を立てようにも声も立てられぬわい。(へたへたと尻餅命の空気が脱け出・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・おかあさんはそれをあんまり悲しんでおうぎ形の黄金の髪の毛をきのうまでにみんな落としてしまいました。「ね、あたしどんなとこへいくのかしら。」ひとりのいちょうの女の子が空を見あげてつぶやくようにいいました。「あたしだってわからないわ、ど・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・やっぱり特徴のある髪の毛と細面な顔だちで、和服に袴の姿であった。そして漂然としたような話しぶりの裡に、敏感に自分の動きを相手との間から感じとってゆこうとする特色も初対面の印象に刻まれた。丁度どこかへ出かけるときで、小熊さんも一緒に程なく家を・・・ 宮本百合子 「旭川から」
・・・額には汗がにじんで、それに乱れた髪の毛がこびり附いている。「ははあ、きょうも運動すると暑くなる日だな」と思う。木村の借家から電車の停留場まで七八町ある。それを歩いて行くと、涼しいと思って門口を出ても、行き着くまでに汗になる。その事を思っ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・一本の脚は黄いろで、一本の脚は赤かった。髪の毛の間にははでな色に染めた鳥の羽を挿していた。その羽に紐が附けてあって、紐の端がポッケットに入れてある。その紐を引くと、頭の上で蝋燭を立てたように羽が立つ。それを見ては誰だって笑わずにはいられない・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・訝りながら床をはなれて忍藻の母は身繕いし、手早く口を漱いて顔をあらい、黄楊の小櫛でしばらく髪をくしけずり、それから部屋の隅にかかッている竹筒の中から生蝋を取り出して火に焙り、しきりにそれを髪の毛に塗りながら。「忍藻いざ早う来よ。蝋鎔けた・・・ 山田美妙 「武蔵野」
このデネマルクという国は実に美しい。言語には晴々しい北国の音響があって、異様に聞える。人種も異様である。驚く程純血で、髪の毛は苧のような色か、または黄金色に光り、肌は雪のように白く、体は鞭のようにすらりとしている。それに海・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫