・・・枝に渡して、ほした大根のかけ紐に青貝ほどの小朝顔が縋って咲いて、つるの下に朝霜の焚火の残ったような鶏頭が幽に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの音信を投げた、玉章のように見えた。 里はもみじにまだ早い。 露地が・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・のお召で包むも惜しい、色の清く白いのが、片手に、お京――その母の墓へ手向ける、小菊の黄菊と白菊と、あれは侘しくて、こちこちと寂しいが、土地がら、今時はお定りの俗に称うる坊さん花、薊の軟いような樺紫の小鶏頭を、一束にして添えたのと、ちょっと色・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・気持がよかった、軒の下は今掃いた許りに塵一つ見えない、家は柱も敷居も怪しくかしげては居るけれど、表手も裏も障子を明放して、畳の上を風が滑ってるように涼しい、表手の往来から、裏庭の茄子や南瓜の花も見え、鶏頭鳳仙花天竺牡丹の花などが背高く咲いて・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・胸像のかたわらには、鶏頭の花が咲いていた。少女は耳の附け根まであかくなった顔を錆びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色なおおきい眼を更におおきくして彼を睨んだ。青扇はその視線を片手で払いのけるようにしながら、「その胸像の額をごらんください。よご・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・何とか云う名の洋紅色大輪のカンナも美しいが、しかし札幌円山公園の奥の草花園で見た鎗鶏頭の鮮紅色には及ばない。彼地の花の色は降霜に近づくほど次第に冴えて美しくなるそうである。そうして美しさの頂点に達したときに一度に霜に殺されるそうである。血の・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・たとえば四つ目垣でも屋根でも芙蓉でも鶏頭でも、いまだかつてこれでやや満足だと思うようにかけた事は一度もないのだから、いくらかいてもそれはいつでも新しく、いつでもちがった垣根や草木である。おそらく一生かいていてもこれらの「物」に飽きるような事・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・白粉花ばかりは咲き残っていたが鶏頭は障子にかくれて丁度見えなかった。熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・道傍、溝の畔に萩みだれ、小さき社の垣根に鶏頭赤きなど、早くも園に入りたる心地す。 この辺紺屋多し。園に達すれば門前に集う車数知れず。小門清楚、「春夏秋冬花不断」の掛額もさびたり。門を入れば萩先ず目に赤く、立て並べたる自転車おびたゞし。左・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ この青い秋のなかに、三人はまた真赤な鶏頭を見つけた。その鮮やかな色の傍には掛茶屋めいた家があって、縁台の上に枝豆の殻を干したまま積んであった。木槿かと思われる真白な花もここかしこに見られた。 やがて車夫が梶棒を下した。暗い幌の中を・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
・・・正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばって居る。秋海棠はなお衰えずにその梢を見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない。嗽いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
出典:青空文庫