・・・やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。 老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったく夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯れてしまいました。その年の秋、老人は・・・ 小川未明 「野ばら」
・・・ 私を見ると、顎を上げて黙礼し、「しんみりやってる所を邪魔したかな」とマダムの方へ向いた。「阿呆らしい。小説のタネをあげてましてん。十銭芸者の話……」とマダムが言いかけると、「ほう? 今宮の十銭芸者か」と海老原は知っていて、・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 自分は握手して、黙礼して、此不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華かに夕の雲を染め、顧れば我運命論者は淋しき砂山の頂に立って沖を遙に眺て居た。 其後自分は此男に遇ないのである。・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・と柄にない声を出して、同じく洋服の先生がはいって来て、も一ツの卓に着いて、われわれに黙礼した。これは、すぐ近所の新聞社の二の面の豪傑兼愛嬌者である。けれども連中、だれも黙礼すら返さない、これが常例である。「そうですとも、考えがあるなら言・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・道ばたで葬式にあえば、私たちはひとりでに黙礼の感情をもっていると思う。自分達の航海が無事に終ったにつけても、三等の人たちのその不幸を悼む自然の気持というものはないものだろうか。そのことについて、まるで知らなかったことのようにふれられていない・・・ 宮本百合子 「龍田丸の中毒事件」
出典:青空文庫