・・・椀大のブリキ製の杯、というよりか常は汁椀に使用されているやつで、グイグイあおりながら、ある者は月琴を取り出して俗歌の曲を唄いかつ弾き、ある者は四竹でアメリカマーチの調子に浮かれ、ある者は悲壮な声を張り上げてロングサインを歌っている、中にはろ・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・しく、とてもわれらの住み得べきにあらず、船を家となし風と波とに命を託す、安ければ買い高ければ売り、酒あれば飲み、大声あげて歌うもわがために耳傾くるは大空の星のみ――月さゆる夜は風清し、はてなき海に帆を揚げて――ああ君はこの歌を知りたもうや―・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 兵舎へ帰ると、一人で将棋盤を持出して駒を動かしていた松本が頭を上げてきいた。「いや。」「朝鮮人だそうだよ。三枚ほど刷った五円札を本に挟んで置いてあったそうだ。」「誰れからきいた?」「今、尿道注射に来た憲兵が云っとった。・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ば、つまり出世の道も開けて、宜しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出世するという風には決っていないもので、かえって外の者の嫉みや憎みをも受けまして、そうして役を取上げられまする、そうすると大概小普請とい・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・元来其頃は非常に何かが厳重で、何でも復習を了らないうちは一寸も遊ばせないという家の掟でしたから、毎日々々朝暗いうちに起きて、蝋燭を小さな本箱兼見台といったような箱の上に立てて、大声を揚げて復読をして仕舞いました。そうすれば先生のところから帰・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ スパイが時々訪ねてくると、私は一々家の中に上げて、お茶をすゝめながら、それとなしに娘のことをきくのですが、少しも分りません。――すると、八ヵ月目かにです、娘がひょっこり戻ってきました。何んだか、もとよりきつい顔になっていたように思・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・するは後なる床柱これへ凭れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも二度の引眉毛またかと言わるる大吉の目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打ちこまれて俊雄は縮み上り誠恐誠惶詞なきを同伴の男が助け上げ今日観た芝居咄を座興とするに俊雄も少・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・悦気面に満ちて四百五百と入り揚げたトドの詰りを秋子は見届けしからば御免と山水と申す長者のもとへ一応の照会もなく引き取られしより俊雄は瓦斯を離れた風船乗り天を仰いで吹っかける冷酒五臓六腑へ浸み渡りたり それつらつらいろは四十七文字を按ずる・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
引続きまして、梅若七兵衞と申す古いお話を一席申上げます。えゝ此の梅若七兵衞という人は、能役者の内狂言師でございまして、芝新銭座に居りました。能の方は稽古のむずかしいもので、尤も狂言の方でも釣狐などと申すと、三日も前から腰を・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・何かしら為て来ない人には、決して物を上げないということにして居る。だって君、左様じゃないか。僕だって働かずには生きて居られないじゃないか。その汗を流して手に入れたものを、ただで他に上げるということは出来ない。貰う方の人から言っても、ただ物を・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫